(つづき)
進 一男は、17歳のときはじめてリルケを知る。『マルテの手記』に、
僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいかしらぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく」
まず見ることから学んでゆく。このリルケの信条告白を、少年はそれを自分の内面で忠実に発展させてゆく。「まず見ることから」という詩人のみずみずしい決意が、80歳の詩人に結晶していることに私は感動する。
私には何時も過去だけがあったと私は書いた
今日も明日もすぐに昨日になってしまう
生きようと思うこと生きていることは
すぐに 生きたこと になってしまう
考えてみると すべてはそういうことになる
過去が忌まわしい過去でないような有り方
私が、みずみずしいと思うのは、こういう感性なのだ。
私たちが過去を思いうかべるとき、「今日も明日もすぐに昨日になってしまう」からだが、過去はぜったいにもとら戻らない。やがて年老いて死ぬことも、そのひと連なりの先にある。だから、過去をふり帰るときには、楽しいことも悲しいことも、いずれ感傷 をともなうだろう。詩人にはいつも過去だけがあった。
だが、「過去が忌まわしい過去ではない」というとき、そこには、やはり、勁い意志がはたらく。
いまの17歳たちは、いわば不安と抑圧から自由になっている。進 一男や私たちがその年齢だった頃、「過去が忌まわしい過去」だった時代には、まず、ぜったいにあり得なかったこと、まるで「生きようと思うこと生きていること」の、どうしようもない乖離(アンコンパティビリテ)のなかで、進 一男が詩をめざしたことに、私はかぎりない共感をもつ。
自分の「生きようと思う」世界から拒絶されていた少年のことを思うと、まず見ることから学んでゆこうとしたことがどんなにむずかしいことだったか、きみたちにも想像できるだろう。
当時の私もまた「まず見ることから学んでゆく」ことからはじめたような気がする。ただし、私が、現在の若者たちよりも、より多くを見てきたり、より多くを経験したのは、ただ馬齢を重ねてきたからではない。誰だって年を食えば、より多くを見たりより多くを経験する、というのは誤りなのだ。老人はより多く経験するどころか、むしろ何も見なくなるのが普通だろう。だが……
私は遠い道と
遙かな時を
ひたすら歩き続けている
(「旅の途中で」)
(つづく)