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ある作家の回想。

彼がとても幼かった頃、年老いた料理女が、眼に涙をいっぱいうかべて、部屋に飛び込んできた。たまたま、その日、有名な女優が亡くなったと聞いて、悲しみのあまり、主人たちの部屋に走り込んできたらしい。
この料理女は、半分文盲で、一度もその女優の出ていた劇場に行ったこともなかった。つまり、名女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことがなかった。
シャルロッテは、偉大な国民的な女優としてよく知られていた。ウィーンでは、まるでウィーン全体の、ウィーン市民のたからものになっていた。だから、この女優の舞台を見たことのない人にとっても、その死は破局的(カタストロフィック)な事態としてうけとめられたらしい。

これはステファン・ツヴァイクの『昨日の世界』の、最初のほうに出てくる。このささやかなエピソードを読むたびに、一人の女優をこれほど愛したかつてのウィーンの市民たちに私は心を動かされた。

私たちの文化でも、一人の人気歌手や、芸術家が去って行くとき、しばしば国民的な悲しみが生まれる。例えば、明治期の団十郎、左団次の死や、戦争中の羽左衛門の死など。
だが、その女優の舞台を見たことのない人にとってさえ、女優の死が、とり返しのつかないカタストロフとしてうけとめられたことがあるだろうか。
つまりは、シャルロッテ・ヴィンターや、サラ・ベルナールほどの女優が存在したことがあったのか。

「ブルグ劇場」がとりこわされたときは、ウィーン全体の社交界が、まるでお葬式のような感動におそわれて、桟敷に集まった。最後の幕が下りるか下りないうちに、観客は我がちに舞台にかけあがって、それぞれがひいきにしていた芸術家の踏んだフロアの一片を、形見として家に持ち帰った。
何十年か後になっても、ある市民の家には、そんな、見ばえのしない木片が、りっぱな小箱におさめられて、たいせつにとってあったという。

作家は学生時代に、ベートーヴェンが臨終をむかえた由緒のある家がとり壊されることに反対して、請願や、デモや、新聞に投書したり、学生としてできるかぎりのことをして戦ったという。

「ウィーンのこれらの歴史的な建物のどれもが、私たちのからだから剥ぎとられる魂の一片だった。」

私は、女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことはない。ブルグ劇場も知らない。
しかし、私たちは、震災、戦災という二度の受難のあと、あまりにも多くの「魂の一片」を剥ぎとられなかったか。ただ利便性のためだけに、由緒ある地名がいとも無造作に変更された。もはや名もない道や坂に見えながら、じつはおびただしい歴史が残っていたはずの地域をブルトーザーが押しつぶしてしまったことを、あまりにも多く見てきたではないか。これをしも、文化の扼殺といわずして何か。

私はときどきツヴァイクを読み返す。敬意をもって。
同時に、彼の最後のいたましい姿を思い出しながら。

ウィーン、パリ、サンクト・ペテルブルグが、もっとも美しい都市として知られているように、東京が世界でもっとも醜い都市だったことを思い出したほうがいい。
永井 荷風の嘆きは現在の私たちの悲しみでもある。
もはやとり返しがつかないのだが、わずかながら、今からでも遅くないことがある。

 

 

 

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