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 筈見 恒夫の映画女優史の一節に、ふと胸を打たれた。

    (前略)「アンリエットの巴里祭」にダニイ・ロバンの母親役として、マリー・グローリイが出ていた。このマリーは、デュヴィヴィエの出世作の一つになった「商船テナシチー」の可憐なヒロイン、テレーズである。港の雨は寂しい、あのアーヴルの波止場から、失意のセガールを旅立たして、バスチャンとの恋に失踪した宿屋の女中だ。サイレントの末期から、ゾラ原作の「金」や、「巖窟王」の娘役で売出していた女優だったが、テレーズの役は、彼女として一世一代の思い出の役であろう。二十年の歳月は初々しかったテレーズを、あんなに老いさせてしまったのであろうか。
    (『女優変遷史』1956年刊)

 私にしても、おなじ思いで映画を見てきた……かも知れない。
 歳月はあれほど初々しかった「彼女」を、あんなにも老いさせてしまったのか。つぎの瞬間に、自分もすっかり年老いてしまったことに気がつく。
 筈見 恒夫の一節に胸を打たれたのは、そういう感慨だけによるものではない。
 じつは――ここに書かれた内容が、もはや誰にも共有できないことなのだ。

 私はたまたま「商船テナシチー」を見ている。デュヴィヴィエの初期(サイレント時代から考えれば、中期)の作品。原作は、ヴィルドラック。舞台では、コポオの演出、ジュヴェの照明で、ヴァランティーヌ・ティッシェがヒロイン、「テレーズ」をやっていた。 映画では――浜辺で、マリー・グローリイがアルベール・プレジャンの「バスチャン」と抱きあって波打ち際にたおれ込むシーンがあって、いまでも鮮明に思い出すことができる。

 残念なことに、「金」や、「巖窟王」のマリー・グローリイを見ていない。こうした映画を見た世代ではなかったからである。
 だから、マリー・グローリイの「テレーズ」が一世一代のものだったといわれても、そうだろうなあ、と思うだけで、批評的に検証できない。ひとりの映画評論家がそう書いているというだけのことになる。これがさびしいというか、残念というか。

 「アンリエットの巴里祭」だって、もう誰もおぼえていないだろう。「戦後」はあまり高い評価が得られなかったデュヴィヴィエだが、晩年の傑作の一つ。この映画に、フランスの「戦後」を代表する美女、ダニイ・ロバンが出た。しかし、これももう見る機会はないだろう。

 私が、マリー・グローリイを知らないように、今の人たちがダニイ・ロバンを知らなくても仕方がない。
 たとえば、松井 須磨子の「サロメ」や、河村 菊江(「帝劇」の女優)の「サロメ」も知らないし、アラ・ナジモヴァ、セダ・バラの「サロメ」も知らない。
 「文学座」の「サロメ」、三島 由紀夫演出の岸田 今日子は見ているが、フランス映画(クロード・タナ/85年)のバメラ・サレムも、イギリス映画(ケン・ラッセル/87年)のグレンダ・ジャクソン)も見ていない。両方とも輸入されなかったから。

 それでも、私の内部に「サロメ」が生きていることは疑いをいれない。

 私たちは、それぞれの時代に生きていた俳優や女優たちに、そのときそのとき一瞬々々に別れをつげているのだ。
 映画女優史の一節を読んで、そんなことを思うのはあまりに奇矯だろうか。