ルイ・ジュヴェが亡くなったのは、1951年だった。
この俳優=演出家は、戦後すぐに、ドゴール大統領の要請をうけて、コメデイ・フランセーズの改革に尽力し、大きな足跡を残した。
しかし、ジュヴェが亡くなって8年後、ドゴール派のアンドレ・マルローが文化相に就任して、またまたコメデイ・フランセーズの改革に着手した。これは、ジュヴェの改革を否定するものだった。
かんたんにいえば--「リシュリュー劇場」、「リュクサンブール劇場」の二つに別れている「コメデイ・フランセーズ」の、それぞれの役割をはっきり区別しようとした。これが、ルイ・ジュヴェの「改革」だった。
ところがマルローは、この二劇場分割制をやめることにした。そして、「コメデイ・フランセーズ」の総支配人に、チェコ駐在大使だったクロード・ボワサンジュを任命した。
「リュクサンブール劇場」は、戦前からあった、もとの「オデオン劇場」にもどして、ジャン=ルイ・バローの劇団の常打ち小屋にする。
一方、「国立民衆劇場」をひきいるジャン・ヴィラール、それに、作家のアルベール・カミュに、それぞれ劇場を引き受けてもらって、国立劇場に、新人作家の登場を促し、ヴィラールには、古典を中心に演出をしてもらう、という構想だった。
当時、この改革に対して、賛否両論が活発に出されたが、ロベール・ケンプなどは、「コメデイ・フランセーズ」の一座統括に反対した。レパートリーに制約を生じて、新作の登場がむずかしくなる、という論点だった。
誰も指摘しないことだが、後年のパリ革命の遠因の一つに、このときの強引な「コメデイ・フランセーズ」改革があったのではないか、という思いが私にはある。