(つづき)
つい最近、テレビで、カザフスタンの若い女子学生たちの、日本語による弁論大会を見た。(’09・4・23。4チャンネル/8:45 P.M.)
カザフスタン、アルマテイの国際関係外国語学校、東洋語学、日本語科の生徒たち、42名が、日本語を勉強している。
(この大学では、17ケ国の語学科コースがあるという。)
いうまでもなく・・・日本は、かなり長期にわたって、鎖国をつづけてきた。鎖国がよかったかどうか、これは問わないとして、結果的には、いちおう一国家、一民族、一言語、一文化という、まとまりのいい等質的な状態を保持してきた。
このため、お互いに何もいわなくても、阿吽の呼吸で、暗黙に理解しあえるような、いわばラコニック(寡黙)なものを身につけてきた。
そういう態度は、mutual dependence ともいうべきもので、外国人、とくにアメリカ人のような self-reliance は、私たちがもたないもの、とされてきた。だが、もはや、そんな概括は成立しない。
このアルマテイの、日本語科の生徒たちが、弁論大会で選んだテーマは、 「子供の教育」、「(現代人の)将来をおびやかすこと」、「私が大学を作るとしたら」、「私はカザフ人」、「ほほえみの秘密」、「父の教えに」、「カザフスタンの教師(のおかれた)状況」、「ことば(自国語)をなくしたら自分もなくなる」、「流行と伝統のバランス」……
いずれも20歳から22歳の、若い女子学生のスピーチで、日本語の学習歴は、2、3年。そのスビーチの論理的な展開に、彼女たちのしなやかな感性が裏打ちされていた。
むろん、今の私たちもさまざまな外国語も勉強しているし、戦後は、外国の圧倒的な影響をうけて、かつてのように、それほど「まとまりのいい等質的な状態」を維持しているわけではない。
ただ、テレビで、外国人で日本語を勉強している若い人たちを見ると、ありがたいと思う反面、ひどくむずかしい未来を選択したのではないか、という懸念もおぼえる。
カザフスタンの女子学生たちが、近い将来、日本語に関係のある職業について、いっそう日本に親しみをおぼえてくれますように。
彼女たちの self-reliance は美しい。