小学校5年、6年から、英語の学習が必修になる。小学校から英語の勉強にとり組む。わるいことではない。
私などの場合、中学時代から英語教育にはほとんど無縁だった。その後、英語にかぎらず、他の外国語も学習したが、いつも独学だったから、現在の学校教育には基本的に賛成する。
「外国語を読む」ことから、「外国語を話す」教育への転換は、21世紀のグローバルな社会への適応として、社会の needs を反映したものと見ていい。
しかし、私はこうした教育に大きな懸念をもっている。
「外国語を読む」には辞書さえあればいい、いちおう意味がわかればいい。「外国語を話す」ためには、ネイティヴの発音からしっかり身につけたほうがいい、という考えかたに、私は危険なものを感じる。
こういう考えかたは――確実に外国語の読解力を退化させる。
書物ばかりではなく、インターネットなどによる思想、知識、情報等の伝達手段としての「ことば」の機能をスポイルすることになる。
じっくりと本を読むことで身につくものがあるのだ。
「外国語を話す」教育が何をもたらすか。
ほとんどの人が、カタコトながら外国語を話せるようになる。それはいい。しかし、ほんとうに、外国の人と心からの会話をかわすことはできないだろう。コミュニケーションによる意志伝達の機能としての言語は、たかが、小学校5年、6年からの英語の学習で身につくものではない。
もし、外国語をほんとうに理解し、ほんとうにコミュニケートが可能な教育をのぞむなら、別のコースを想定すべきだろう。
私は、その具体的な例を外国、たとえばカザフスタンの日本語教育に見る。
(つづく)