若いくせに年寄りじみたことをいう人間を見ると、片腹痛く思うが、年寄りのくせに若がっているのを見ても、しばしばキザに感じる。
私の意見ではない。四十代になった水上 滝太郎が書いていた。(昭和8年)
同じ四十代になってみると、いずれも頭髪は薄くなり、白髪もちらちらまじり、或者は持病に悩み、或者は下腹や頸の廻りに無用な脂肪の溜った年寄型となり切って、前途の夢は乏しくなり、……(後略)
水上 滝太郎は年齢とともに、食物の嗜好がいちじるしく変わり、「西洋料理はつとにいやになり、支那料理さへも嬉しくなくなり、まぐろの刺身に箸が向かず、混合酒の技巧が鼻について来たが……」と書いて、文学の好みまでも変化してきたと書いている。
作家はさらにつづける。
年齢は人の性質をやわらげることもあるが、ときには、人を頑固にし、融通をきかなくさせる。多年努力して築きあげた自分の立場から、一歩も外に出たがらなくなる。個性の違いがはっきりしてきて、合唱がへたになり、人真似ができなくなる。
私は水上 滝太郎を尊敬している。彼の意見におおむね賛成する。ただし、いささかの憫笑をもって見ているといわざるを得ない。(私は舞い舞いの古狐に魅いられた老いぼれの、しれ者。相手が水上 滝太郎だろうと何だろうと気にならない。)
水上 滝太郎がこれを書いた当時、やっと40代の半ばだったはずである。
「はなやかな夢想はけしとんだが、四十代には四十代の人生があり、活動があり、努力があり、文学があると思つている。感覚は鈍り、花火のやうな感激はなくなつたが、者を見る眼は深く広く、社会人事に関して総合的に考える力は加つた。人生を短編小説的見方では見ず、長編小説的に見る能力は、次第に恵まれて来るやうである。」
やっぱり、大作家はいうことが違うなあ。(笑)
いささか皮肉をこめて、こういう人生観、文学観で、社会人事に関して総合的に考える力をたくわえた作家を尊敬したくなる。
私などは、アメリカの金融危機が日本の産業を直撃するなど、どう考えても理解できないことばかりだし、社会人事に関しても、大きく緩和された労働市場の規制、雇用の悪化、ハウジング・プアと呼ばれる人々があふれている現実を長編小説的に見る能力などまったくない。いじめ、不登校、自殺、そんな子どもたちの人生を長編小説的に見るどころか、短編小説的見方でも見られない。
私ぐらいの年齢になれば、前途の夢どころではなくなるが、四十代になって頭髪が薄くなったり、白髪まじり、なかには持病に悩み、下腹はメタボといった中年になり切ってしまうのは早すぎる。そこのところだけ、水上 滝太郎に賛成。