絶世の美女を見たことがある。至近距離で。「パリ・ソワール」の横の坂道に出たとき、車が坂を登ってきた。私は車をよけた。バック・シートの女性が顔をあげた。ダニエル・ダリューだった。まさか、こんな場所でフランスの美女とすれ違うとは予想もしなかった。一瞬、私の顔に驚きがひろがっていたに違いない。
彼女はちらっと私を見ただけだった。車は私の横を通りすぎて行った。
それだけのこと。私は茫然自失して彼女を見送っていた。
ひょっとすると、あのダニエル・ダリューは白日夢だったのか。それとも、私の妄想だったのか。
日本でもダニエル・ダリューはよく知られていたが、実際にはわずかな映画しか輸入されなかった。
戦前の「うたかたの恋」(36年)も、日本では公開されず、戦後になってから見ることができた。戦後、「輪舞」(50年)などでダニエルの健在を知ることができた。
私は「不良青年」(1931年)を、戦後すぐの池袋で見た。この映画は、戦後の混乱のさなか、突然単館で公開されたもので、わずか一週間で消えた。この映画を見たのは偶然だったが、私にとっては幸運としかいいようがない。
だが、ダニエル・ダリューが、ハリウッドで撮った「パリの怒り」(38年)も、パリでとった戦争直前の「心のきず」(39年)、戦時中の「はじめてのランデヴ」(44年)などは見ることができなかった。
こうした映画は、フランスではビデオにもなっていない。
つまり、もっとも美しかった時期のダニエルを私たちは知らない。
私たちの外国文化に対する理解はいつも偏頗なものなのだ。ダニエル・ダリューのことにかぎらないが、私の外国文化に対する理解が偏っているという自覚は、いつも私の心から離れない。