好きなことば。
ぼくはことばを音楽的に見るだけだ。ことばを歌うものとして見るだけだ。ことばが歌いだされるのは曲があるからなんだ。ぼくが歌をつくるのは、何か歌うものが必要だからだよ」
――ボブ・ディラン。
うっかり読めば、このことばはほとんど何も意味していない。しごく当たりまえのことばに聞こえるだけだ。しかし、「ジョン・ウェスリー・ハーディング」の直後(1968年2月)に語られているこのことばに、私はひとりのシンガーの、じつに明快、率直な確信を聞きとる。
ことばを歌うものとして見るだけだ、という無類に単純ないいかたには、なぜ、山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだ、と答えた登山家のことばに近い、あふれるような自負さえ感じられる。
ほんとうのアーティストたちは、その発展の折りふしに、私たちの心にきざみつけられる、なぜかわからないけれど、間違いなくその時代にふさわしいイメージをもつ。
当の本人が風のように転身すると、あとに残された映像は、たちまち明確な像をむすばなくなり、やがては拡散して、やがてばらばらな記憶になってしまう。
たとえば、ビートルズ。
ジョージ・ハリソンは語っている。
「大衆が変わろうとしているとき、ぼくたちが出てきただけさ」と。
おなじ時期に、ジョン・レノンはいった。
「ぼくたちの音楽をほんとうに理解してくれるやつなんて、百人もいないさ」と。
ビートルズは大衆を変えた。彼らの音楽をほんとうに理解したのは、百人ではなかったからだろう。
おなじことは、ボブ・ディランだっていえたはずだ。だが、ジョージとジョンの言葉のあいだにある深淵にも似た距離は、ジョージとボブ、ジョンとボブのあいだにもあったはずなのだ。
ボブが歌を作るのは、なにか歌うものが必要だからだった。ボブの「風に吹かれて」は、いま青春をまっとうに生きている若い人たちに、なんらか痛切な思いを喚び起さずにいない。それはやがて「ジョアンナのヴィジョン」になってボブにまつわりつく。一瞬ののち、私たちもまた風からめざめるのだろうか。