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 私は大学、その他で講義したり、いまも「文学講座」のようなものをつづけている。しかし、一度も自分を教育者だと思ったことはない。
 私のようにずぼらで、いいかげんな人間は、教育者としては不適格だろう。
 最近の教育改革の論議を見ていて、大きな問題になっているのは、教える側に不適格者が多いということだ。
 私の教えた人たちからも、教育の現場にいる教師が多い。その人たちからいろいろと話を聞くのだが、教師のなかには、精神的に追いつめられて鬱に陥る人が少なくないという。それとは別に、教員としての素質も、適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは、教員の教育能力を向上させなければならない。
 ひろく検定試験を実施したり、少なくとも何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 私は疑問をもっている。何かの事態が起きると、きまってこういう「正論」が出てくる。私はこういう「正論」に反対はしないが、こうした対症療法がはたして有効なのか、と疑う。こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 私は小学校から、ひとりも「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だった。

 小学生たちは、はっきり見ているのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は表面は「よくできる」ように見えて(見せて)いるが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしている、とか、あの先生はどの生徒をヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。
 子どもたちは、かなり正確に「教育喜劇」を見届けている。

 個人的な資質、教育に対する熱意、その程度のことは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。そして、教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。(だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、かつは誤りである。)
 教員たちの個人的なレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんなことで、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるだろうか。
 問題は、教員たちの個人的な資質や、努力にはない。
 現在の教育システムの破綻にあるのだ。

たとえば――ジャック・ラカン。

     教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれてこられると、少なくとも見かけ上、 誰でもいちおうそれなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねにじゅうぶんに知っているのです。
       「教える者への問い」

 これは、教育について私がこれまで読んだ言葉の中でもっとも正しい言葉である。
(内田 樹/「教育に惰性を」 「本」07/2月号)