いまの女性は、19世紀から20世紀にかけての女性たちとは、比較にならないほどの自由を獲得している。
クラフト・エービングは、女が個人としての存在になることを期待していた。その当時は(20世紀初頭)まだ、女性の社会的な地位は男性よりもはるかに低いものであっても、次第に女としての権利をもち、自立的に行動できるようになれば、自分から求めるのでなければセックスをしなくなる。そうなってはじめて、性生活は洗練された発達を見るようになる、と考えた。
現実に、いまの女性は性的にも自由を獲得している。クラフト・エービングの希望、期待は果たされたと見ていい。
だが、論理的にいえば、ここにもう一つの論点が生じる。
男におけるマゾヒズムという問題である。なぜなら、男が自分の動物的な情動・・・リビドーといっていいかも知れない・・・が女によって抑えつけられる場面を演じたいという、コンパルシヴな欲求が、まさにこのクラフト・エービング原理をささえるからである。つまり、女性は性的にも自由を獲得した状況は、マゾヒスト(男)にとっては、願ってもない場所ではないか。
ジョン・K・ノイズの『マゾヒズムの発明』を読んで、私は、あらためてドストエフスキー、ザッヘル・マゾッホ、谷崎 潤一郎などについて考えはじめている。
(女のマゾヒズムについては、ある映画女優の生涯にふれて書くつもり。)