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 東京オリンピックのマラソンで、アベベが優勝した。このとき、日本代表だった円谷 幸吉は最後まで力走して、3位になった。
 だが、その後、円谷 幸吉は自殺した。どうして自殺しなければならなかったのか。長いこと疑問に思ってきた。

 東京オリンピックから、円谷 幸吉は岐阜の国体で、優勝を期待されながら2位。メキシコ・オリンピックをひかえて、不調がつづく。2年後、26歳の円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校に在学中だった。
 この頃、彼はある女性と結婚して、再スタートを切ろうと決心していた。相談を受けた父も、コーチも結婚に賛成だった。

 ところが、思いがけないところで反対された。
 自衛隊体育学校の校長が反対した。大事なときに、結婚とは何事か、という叱責だったらしい。
 円谷 幸吉の家族と、相手の女性の家族が、福島県の郡山市で会ったとき、この校長も同席したが、その場で、「私は賛成できない」と放言した。
 けっきょく、先方からこの縁談を断ってきたという。

 円谷に結婚をすすめたコーチは、この直後、札幌のスキー訓練部隊に転属された。
 1968年9月、円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校を卒業。教官に任命されたため、ランナーとして鍛えるべき時期を教官という激務で制約された。

 歳末、故郷の実家ですごした円谷 幸吉は、正月、自衛隊体育学校に戻って、松がとれてすぐに自殺している。

 その後、この自衛隊体育学校の校長は平時の武官としては最高の栄誉を受けて退任したはずである。さぞ、ご満悦だったに違いない。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 作家としての私は、この自衛隊体育学校の校長が、円谷 幸吉の自殺を知ったときどう思ったかを知りたい。むろん、何を語るはずもない、とは思うけれど。

 自分の勲功が、じつは円谷 幸吉に多くを負っていたことを考えたろうか。おそらく、そんなこともなかったのだろう。

 もっとも嫌いな日本人をあげるとすれば、私は躊躇することなく、この自衛隊体育学校の校長をあげるだろう。おのれの権威を笠に、傲慢、低劣に人生をうまく立ちまわってきた典型的な軍人として。

 この人物のことをもっとも恥ずべき日本人として、憎悪をこめて心に刻みつけておく。