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 1945年8月15日、戦争が終わった直後、私は、敗戦の大混乱のなかで、毎日のように映画を見て歩いた。
 戦災で家を焼かれ、私が通っていた工場も空襲でやけて、勤労動員も解除ということになってしまった。母親は栃木、妹は埼玉に疎開したまま、父親は失業、私の大学は授業再開も未定という状態だった。召集されて軍隊に入った友人たちも、まだ、誰ひとり復員していなかった。
 私は、まるで浮浪児のように浅草をうろついていた。戦争が終わって、大混乱のさなか、大学は再開のめどもたっていなかった。浅草をうろついて映画でも見る以外、ほかにすることもなかったから。

 何もかも大混乱だった。終わるはずもない戦争が終わったという虚脱状態で、誰もが歓楽街に押し寄せたのではないだろうか。敗戦の翌日には、三方に柱を建てて、ぐるりとヨシズを張っただけのバラックが並びはじめ、闇市(ブラック・マーケット)が形成されはじめた。フカシイモ、スイトン、雑炊など、おもに食料が中心だが、それまで見かけたことのない日用品、雑貨、古着などの衣料、並べたそばから飛ぶように売れた。

 1945年8月15日以後、日本映画の製作はすべてストップした。それまで国策映画、戦意昂揚映画を撮っていたスタジオは、戦後、どういうことになるかまるで見当もつかなかったはずである。
 当然ながら、それまで、国策映画ばかり上映していた映画館の大半はブッキングがとまったので、ガラガラ。ただし、敗戦の翌日には、戦争が終わったドサクサにまぎれて、どこから見つけてきたのか、戦前の映画、それも活動写真、戦前公開されたままおクラ入りだった外国映画などを上映する映画館がぞくぞくとあらわれた。
 浅草はただひたすらごった返していた。
 このとき私が見た映画では、マキノ 正博の「雪之丞変化」、ソヴィエト映画の「愉快な連中」や、G・W・パプストの「喜びなき街」など。

 『喜びなき街』(1925年)は、グレタ・ガルボがはじめて出た外国映画である。監督はG・W・パプスト。
 若い娘が「戦後」に惨憺たる生活をつづけ、彷徨する暗い内容だった。
 敗戦直後の日本で、第一次大戦の「戦後」ウィーンを描いた映画を見る、などということは、いまの私には途方もなくファンタスティックなことに思える。

 この映画のラスト・シーンに私は衝撃をうけた。

 敗戦後のウィーンの街角。わずかな肉の売り出しに、人々が殺到する。その群衆のなかをあてどもなくガルボがさ迷い歩く。その一瞬、別の若い娘が彼女とすれ違う。お互いに顔を見合わせるわけではない。ただ、すれ違うだけである。その娘を見た時、私はアッと驚いた。見覚えがあった。どこかで見た覚えがある。誰だったろう?
 思い出した! マルレーネ・ディートリヒだった。      (つづく)