たとえば、最近の金融不安について、私は何を考えたか。何も考えなかったわけではない。むしろ、いろいろなことを考えた。私が経済学者だったら、1編の論文を書くこともできたはずである。
たとえば、トラックを秋葉原に乗りつけて、ダガーナイフをふるって、つぎつぎに通行人を殺傷した男について、私はなんらかの意見をもたなかったか。
31年前に保健所にイヌを処分されたという理由で、かつての厚生省事務次官夫妻を殺害し、さらに隣県に住む別の元事務次官の夫人も襲った犯人について、私は何も考えなかったか。
テレビを見ると、現実に起きているさまざまな事件、事象について、いとも明快に解説してくれる人々がいる。
だが、それを見ながら、私は逡巡する。私はそれほどスムースに自分の考えを述べることができるだろうか、と。何かについて、なんらか誤りなく言及することは、私などのよくするところではない。
トークを聞いている私の内部には、したり顔で、えらそうに言及なさるコメンテーターに対する不信、あるいは、ひそかな侮蔑が渦巻いている。
そうしたコメンテーターの「コメント」は、その場その場ではいかにも正しいように聞こえるけれど、こちらが心のなかでたどり直してみると、じつはたいしたことを語っているわけではないことに気がつく。私がひそかな侮蔑をおぼえるのは、それを「良識」、ないしは「常識」として自認しているらしいところなのだ。
彼らはしばしば、私たちの判断を別の方向に向けようとする。
私は、冷たい怒りをおぼえながら、そういう人物を見ている。
いつか、私はそういう連中に対してフィリピクスを試みるかも知れない。
渾身の力をこめて。