ジャンセンの描く少女たちは、特別な女性である。ひたすら清らかで、イノセントで、ふれれば、いまにもこわれてしまいそうな、ガラスのように脆い。
その気になれば、彼女をとらえて、犯すことさえ許されそうな気がする。
しかし、そんな想念はすぐに消えて、彼女を世にも貴重なたからもののように守ろうとする。
ジャンセンの描く少女は、カッセニュール、テレスコヴィッチ、さらには、ジャック・ボワイエたちと共通している。美少女たちだが、どこかネフロティック(神経症的)なものを感じさせる。
まだ幼いわき腹のくびれから、腰のふくらみまで、しっとりと弾むような手応えもふっくりしているだろう。
なにもかも自分の意のままになる、素直で、ただパッシヴな存在であるジャンセンの少女に手をさしのべたくなる。
ジャンセンの描く、輪郭線のせいだろうか。そのドローイングは、けっしていっきには描かれない。正確な線なのだが、少女の内面のゆらぎのように、少しの距離で立ちどまり、おののき、また気をとり直すように走り出す。たちまちこの少女の運命そのもののようにその線の流れが、少女の姿をとらえる。それは、少女が、自分では少しもかかわりのない、深い孤独のように。少女はそれを少しも理解していないか、気がつかないのかも知れない。
ジャンセンの描く少女と、ルノワールの描く少女とは、まるで別の世界に生きているようだ。ルノワールの少女は、いずれ、成熟した女性になる。私たちは、たとえかすかにせよ、それを予感する。しかし、ジャンセンの少女たちにおいて、時間は、あくまで静止していよう。そこに見られるのは、少女の肉体という時間なのだ。それは、けっして動かない。彼女はまだ男を知らない。とすれば、過ぎ去った歳月が、この繊細なからだにどんな跡を残してきたというのか。
私は、けっして届かない虚空にむかってまなざしを向けている。
「バレリーナを描く ジャンセン展」
ギャレリー「ためなが」(’08.9.16.~ 10.11)