「駿河台文学」の終刊号は、作家、豊島 与志雄の特集で、私は短い「豊島 与志雄論」を書いた。そのなかで唐木 順三にかみついた。唐木は、私よりもずっと先輩で、当時、まだ文学部の教授だったはずである。
小川 茂久は何もいわずにそのまま掲載してくれた。
その後、小川と私のあいだで「駿河台文学」が話題になることは二度となかった。
はるか後年、私はある作家の本を出してくれる出版社をさがしていた。小川に相談したところ、当時、坂本 一亀がやっていた出版社を紹介してくれた。この話は坂本 一亀が了承してくれたため、すぐにまとまった。5分もかからなかったと思う。
作家は編集の打ち合わせがあるので、その場で別れたが、帰り際に小川が訊いた。
「おい、中田、これからどうする?」
「おまえといっしょなら、(行き先は)きまっているじゃないか」
私は答えた。
あとになって、その作家は、
「中田さんが羨ましい」
といった。
「どうしてですか」
「お互いに、おれおまえで通じる友人がいるからですよ。私には、そういう友人がいませんので」
なぜか胸が熱くなった。小川 茂久とは半世紀におよぶつきあいだった。
戦争中は、工場労働者の服に戦闘帽、ゲートルを巻いて、毎日、川崎の石油工場に通っていた。小川は、いつも分厚な鴎外全集の一冊をかかえて、通勤の往復に読みふけっていた。戦争が終わった直後に、同級の覚正 定夫(柾木 恭介)が撮ってくれた写真が残っているが、私も小川 茂久も、まるで戦争で身寄りをなくした孤児のような、うす汚れた少年だった。
50名の同級生のうち、戦死、戦災死、病死、自殺、ヤクザに切り殺された1名をふくんで26名が死んでいる。つまり、戦後に生き延びた24名のなかで、私と小川は親友として過ごしてきたのだった。
その歳月の重みが、いきなり堰を切って押し寄せてきた。
だから、「お互いに、おれおまえで通じる友人」といっても、フランス語の「チョトワイエ」などではなかった。