おなじ大学を出て、いちおうおなじような知性をそなえて、おなじ大学で教えていた。似たようなことを続けていれば、黙っていてもお互いの意志の疎通もスムーズにゆく。
小川 茂久とは、親しい友だちなので、相手のささいな心の動きまでわかっている。黙っていても、相手の心がつたわってくる。
大学の事務室で会って、
「あとでナ」
といえば、それからの予定はきまっていた。
桜木 三郎(「集英社」の編集者)が、明治の旧文芸科の出身者だけの文学雑誌を出そうとして私に相談にきた。彼の心づもりでは、「早稲田文学」や「三田文学」が出ているのだから、明治もおなじような雑誌を出すべきだという。
私は小川 茂久が「やろう」といえば、どこまでも協力しようと答えた。私は明治出身者だけの同人雑誌などというものに少しも幻想を抱いていなかったが、これが「駿河台文学」という雑誌のはじまりになった。
創刊号を編集したのは、私だった。
「駿河台文学」の創刊号を編集することになったが、まるっきり経済的な基盤がなかった。なんとか雑誌を出す費用を捻出しなければならない。
そこで、翻訳のアンソロジーを作って、その印税を雑誌の費用にあてようと考えた。
これが『ミステリーをどう読むか』(三一書房)という本になった。訳者に明治の出身者を集めたが、ドイツのブロッホを入れることにしたので、これだけは友人の深田 甫(慶応大/教授)に翻訳を依頼した。
深田君に事情を話して、稿料は半分だけで勘弁してもらうことにしたが、あとの訳者たちのぶんは、全額、「駿河台文学」に寄付というかたちをとった。
ずいぶん強引なやりかただったが、ほとんどの訳者がこころよく応じてくれた。
「駿河台文学」の創刊号は出せた。しかし、雑誌の内容をめぐって、さまざまな悪評が起きたのだった。小川 茂久は、私に対する批判を一身にひきうけてくれたようだった。もともとそんな同人雑誌に幻想を抱いていなかった私は、これで熱意がさめた。
結果として「駿河台文学」は4号を出して終わったが、最後の号を編集したのは、小川 茂久だった。
小川 茂久は、いい出しっぺの私が手を引いたため敗戦処理のクローザーというかたちで、「駿河台文学」の終刊号の編集を引き受けたのだった。
(つづく)