911

友人から手紙をもらうほど、うれしいことはない。
 小川 茂久は、ほとんど手紙をくれたことがなかったし、手紙をくれるときはいつもハガキだった。なにしろ毎週、2回は会っていたのだから、お互いに手紙を書く必要がなかった。その彼のハガキが出てきた。

    佐々木基一『昭和文学交友記』読了。だいぶ以前、佐々木氏が『東京』紙上で回想記を書いていることを耳にしたことはあったが、これほど長く、まとまったものとは思っていなかった。戦前の共産主義運動を経験した方と、戦前は幼く戦中の小中教育ではすなおに学び、大学ではどたんばの時を迎えて、生をあきらめ軍隊に入った私のような者との違いがひしひしと感得された。君の写真はいつごろのものだろうか、いい目つきをしているね。覚正、関口の名も出てきて、昔のことを思い出し、興味深い。佐々木氏はきびしいがやわらかい、するどいがやさしい心の持ち主だ。
 消印は1984年1月8日。

 佐々木基一の『昭和文学交友記』は、小川が書いているように「東京新聞」に連載された回想。
 覚正 定夫も私の友人で、戦後、小川 茂久、関口 功とともに、明治大学文学部の助手として残り、共産党に入った。柾木 恭介というペンネームで映画評論を書いた。
 私はその後、柾木 恭介とは、まったく疎遠になった。
 後年、小川 茂久は明大仏文科の教授、関口 功は英文科の教授になった。

 ここでふれられている私の写真は、戦後、何かのことで「東京新聞」文化部にわたしたもの。

 小川 茂久はフランス語の先生だったし、私はもの書きが本職で、明治では別の科の講師だったので、大学でのつきあいはなかった。お互いに、授業のあとは以心伝心、行きつけの居酒屋、酒場に足を向ける。山形/庄内の酒が飲める「弓月」か、ママさんが鹿児島ガ阿久根出身の「あくね」。行き先がきまっているので、小川にかならず会えるのだった。
(つづく)