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 福田首相が突然辞任して(’08.9.1)、麻生新内閣が発足した。いずれ総選挙ということになって、蝸牛角上の争いがつづいている。

 私の「文学講座」は、いよいよ戦後にさしかかってきた。私流の「文学史の書き換え」なのである。
 この夏、ろくに本も読めなかったので、少しづつ本を読みはじめている。

 話は違うが・・・私などにも、いろいろなひとが著書を送ってくださる。ありがたく頂戴して読みはじめる。同人雑誌で、すでに作品を発表している女性作家のものは、なまじ文学的なグループに参加しているだけに、いかにも書き慣れた作品が多い。そして、主宰の著書は読んでいても、古典も、外国の作家もほとんど読んだことがない(と、判断する)。
 ほとんどの作品は、自分の書きたいことをまとめただけで、ものを書くという緊張はない。だから、せっかく頂戴しても大概の作品に感心しない。

 著者にはかならずお礼のハガキを書く。
 そういう作品を読むことで、じつにいろいろな問題を考えることができるから。
 チャットやネットで、しごく簡単におなじ趣味をもつ仲間を探すことができる時代に、顔も見たことのない私に、わざわざ本を贈ってくださるのだから、お礼を申し上げなければ罰があたる。

 いま、たまたまこんな文章を読んでいる。

    秋のけはひの立つままに土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の聲々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 ある作家の日記のオープニングだが、わずか数行ながら、秋の季節の訪れを感じている作者の内面の動きがみごとにとらえられている。
 そして、何をおいてもまず緊張がある。

 私は考える。作品を書くということは、こういう文章に、せめてひとすじ、どこかでつながることではないだろうか。