(つづき)
昭和二十年十一月二十九日という日付から、私の内面にさまざまなイメージがかけめぐった。
戦火に焼けただれた街にアメリカ兵が颯爽とジープを走らせている。戦争が終わったばかりの都会には、おびただしい数の浮浪者があふれていた。いまでいうホームレス。そして、浮浪児たちの群れも。
若いGI(兵士)をめあてにあらわれるパンパンと呼ばれる街娼たち。女たちはGI(兵士)をホテルなどにつれ込まない。路上に駐車しているジープ、夕暮れのビルの屋上、焼け残った公衆便所、皇居のお堀端の土手、地下鉄の階段、防空壕の盛り土、女たちのベッドはいたるところにあった。
夜更け、焼けビルにつれ込まれて強姦される女たちの悲鳴。
こうした混乱と頽廃が、あわれな敗戦国の現実だった。
山口 茂吉は、敗戦直後の日々に、この歌集『あづま路』の選を続けていたはずである。だが、この歌集には戦時中の生活の苦しみ、あるいは、敗戦という衝撃はまったくうかがうことはできない。しかも、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)にかけての作歌だけを選んでいる。つまり意識的に戦争を排除したと見ていい。ここには再出発にあたって敗戦直後の日々を生きていた歌人の、静謐な心境などはない。むしろ、いいがたい動揺を私は見る。
山口 茂吉の「あとがき」は、戦争が悲惨なかたちで終わったことに関してまったく言及がない。だから、自選歌集『あづま路』には、そもそも戦争の翳りなどさしていない。このことに歌人の動揺を私は見る。
昭和二十年十一月二十九日夜半。すでに、連合軍の占領がはじまっている。時代の激変のなかで、歌集の歌を選ぶにあたって「みづからの心に期するところがあって、これを一気に選び了へることができた」という。
日本の将来さえ見えていない時期に、山口 茂吉がのうのうとして歌集を編んだわけではないだろう。だが、「みづからの心に期するところがあって」という感懐には何があったのか。
「戦後」の斉藤 茂吉のはげしい懊悩を、山口 茂吉はどこまで気がついて、理解していたのか。
いま、歌集『あづま路』(1946年)を手にして、敗戦直後の歌人が語らなかった、あるいは語ることのできなかった痛みを思い描く。