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 暇なので、歌集をひもとく。川柳ばかり読んでいるわけではない。

 歌集『あづま路』(1946年)を手にとってみよう。

 山口 茂吉(1902~1958)は、「アララギ」系の歌人。生涯をつうじて、斉藤 茂吉に師事した。この『あづま路』は、戦後最初の自選歌集。

    六層の階下るとき正午(ひる)を告ぐるサイレンの音しばらく鳴りぬ

    陸橋の下の舖道に冬の日のふかく差せるを見つつ通りぬ

    新しき年の来むかふ夜のほどろ眼を病みたまふ母しおもはゆ

    銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ

 「冬の日」から。暑いので、わざと冬の歌を選んだ。
 山口 茂吉は斉藤 茂吉のお供で石見に旅行したとき(斉藤)茂吉が病気になったらしい。

    石見のくに行きつつ君は旅ぐせの下痢に一夜をなやみ給ひし

    夜中すぎ下痢をもよほし起きたまふ君がけはひに覚めてかなしむ

    旅にいでて下痢をすること癖のごとくなりつつやうやく君老いたまふ

 斉藤 茂吉に対する深い敬愛がうかがえる。
 しかし、旅先で下痢をしたことまで詠まれては、先生としてはツラいだろうなあ。私は、高村 光太郎を思いうかべた。
 おなじように東北の厳しい風土に隠遁しながら、斉藤 茂吉における山口 茂吉のような弟子をもたなかった高村 光太郎のいたましさを。

 ところで・・・この自選歌集『あづま路』は、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)の作歌、518首を選んだもの。作者、二十五歳から三十四歳の時期。
 「あとがき」に山口 茂吉は書きつけている。

    時雨のあめの降りそそぐ寒い庭に対つてこの集の歌を選びながら、幾たびとなく斉藤茂吉先生の居られない東路の寂しさをおもはぬ訳には行かなかつた。私はみちのくへ疎開して居られる先生の上をはるから偲びつつ先生の御幸福を切に祈つてやまないものである。昭和二十年十一月二十九日夜半、東京麻布にて、山口 茂吉しるす。

 この一節に、私の胸に複雑な思いがあった。昭和二十年十一月。
 日本が敗戦の苦痛と、再建へのわずかな希望にのたうちまわっていた時期である。
                            (つづく)