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夏の菓子はくず饅頭、水牡丹、水仙ちまき、芋羊羹、葛やき等々、すべてくず製のものを最上とする、という。万葉学者の沢瀉 久孝博士が書いていた。(「菓子三昧」昭和26年)
 沢瀉先生は和菓子がお好きだったらしく、「菓子放談」(「菓子三昧」昭和26年)の一節に、

    夏は夏らしく、冬は冬らしく、名を聞いてゆかしく、見た目に美しく、指につまんでやはらかく、ほのぼのとうるほひがあり、唇ざわり、舌ざはりなめらかに、歯にくっつかず、とろとろと溶けて、あはあはと消え行くものが私には最も好ましい菓子だと思ふ。

 と書いている。
 沢瀉先生にしてみれば、ぜんざいは困る。つぶあんはお気に召さない。「あはあはと消えて行かない」から。
 菓子は調進して三時間ばかりたったときが食べ時だという。

    わらび餅が翌日になると、その手ざわりに弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになり、唇に纏はりつくやうな、ぴりぴりとはずむ力がなくなって、わらび餅の魅力は消える、とかつても書いた事があるが、それ程でなくともすべて生菓子の宵越しを意としないのは菓子ごのみの人のわざとは申し難い。世は定めなきこそいみじけれ。缶詰にならぬところに和菓子の良さがある。(「関西大学学報/昭和26年)

 日ましのわらび餅が、手ざわりの弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになるという表現に、思わずにんまり。

 戦後、来日した詩人のエドマンド・ブランデンが、漢字制限と「かなづかひ」の混乱を見て、「美しいものがなくなってゆくのは見ていてイヤなものです」と嘆いたという。沢瀉先生はこれにふれながら、

    かういふ低俗蕪雑な世の中に、くぬぎの薪でたいた餡でつくった蒸菓子などをすすめるのはむだなことで、和菓子の色付にはならぬ毒々しい口紅をつけた女と缶詰でも開いてダンスでもおどって、空缶は道ばたへ捨てておいたらよいのかと思ふけれども・・。

 私は、夏の和菓子では葛まんじゅうが好きなので、沢瀉先生のエッセイを読んでうれしくなった。そして、考えた。沢瀉先生が、いまの和菓子を召し上がったらいかが思し召されるだろうか、と。