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 いやぁ、まだ暑いね。まいりましたな。
 「猿蓑」の附合(つけあい)に、「暑し暑しと門々の聲」というのがあるが・・・今年の7月は猛暑がつづいた。
 京都などでは、31日間、連続で「真夏日」。これは、1994年以来という。
 千葉だって、「真夏日」は23日間もつづいている。こうなると、「暑し暑しと悶々の聲」だよ。

   「暑い! いつもガンガン照りつけるならばまだ辛抱も出来る物の、どんよりとして何だか圧しつけられる様に、どうしても癪に触る暑さである。いつその事あばれてしまへと云ふ、やけくそで、コートヘと飛出してラケットで当り散らかせば、二セット目には、あれあれ! シャツからズボンまで、づつくりと水の中から出て来た様で、眼と云はず鼻と云はず滝流しである。一風呂浴びて、少しは風でも出たかと思へば、是は又どうした事かそよとも云はない。晩飯の膳に向かっても、あれほど運動したのに扨て食ってみたい物は冷(ひや)ぞうめん位な物である。
   こんなに暑いと山へ行き度くなる。」

 辻 二郎の『西洋拝見』(岩波書店刊/昭和11年)から。どうやら1936年(昭和11年)の夏も暑かったのだろう。
 辻先生は、寺田 寅彦に似て、科学者、随筆家。科学者として、当時最高の名誉だった恩賜賞を得た。随筆はおもに登山の思い出、アマチュア写真家としての観察など。
 この『西洋拝見』は、小説仕立てのヨーロッパ渡航の記録。
 残念ながら小説としてはおもしろくない。この本の後半(つまり、小説以外)は昭和9年までに書かれたエッセイ。私が引用したのは、「山とりどり」という随筆の一節。

    こんなに暑いと山へ行き度くなる。

 ほんとうにそんな気がしてくる。

 昭和初期、辻先生は、松本や大町まで、むし殺されるような夜行列車に乗って、アルプスに向かう。

    ・・重いリュックサックに登山靴を引きづりながら、歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処ばかりだと思ふと一寸うんざりする。其歩くのが又楽しみでもある訳だが、いつも帰ってくると、愉快な事ばかり覚へて居てつらかった事は忘れてしまふ様な物の、実は山登りは、なかなかもってえらい労働である。座ったまんま槍ケ岳の肩位まで行ける様になったらさぞ便利だらうと思ふ。そんな事を云ふと、山の冒涜だ等と云っていきり立つ手合もあるかも知れないが、十年後か廿年後か早晩さうなるにきまってゐる。又早くそうした方がいい。ほんとに歩きたい人間は其から先を歩けばよい訳である。

 現在では、昭和初年の辻先生の予想はほとんど実現している。「むし殺されるような夜行列車」どころか、冷房のきいたコンパートメントで、千葉から松本まで直行の特急が走っている。たいへんに便利になった。登山技術も、装備も、昭和初期とは比較にならないほど高度で、洗練されたものになっている。

 2008年7月、東京都は、近郊の低い山のハイキングコースの案内板に、番号つきの識別標をつけている。遭難者が出た場合、その識別標の管理番号を連絡すれば、ただちに所轄の消防署のヘリが出動して、遭難者の救助にあたるシステムらしい。

 登山者がしっかりしていれば遭難するはずもない山々に、番号つきの識別標をつけるなど、地方の僻地の医療に財政支援を行うこととは、まるで次元の違うことだと思う。
 厳冬の北アルプスならいざ知らず、奥多摩、奥秩父あたりで、識別標の管理番号を連絡すればすぐにヘリが出動する体制をとるなど、どうも感心しない。
 東京近郊の山々だから、こういうシステムが考案され、実施、運営されるのだろうが、むしろハイキングする人たちに、奥多摩だって「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」というふうに、考えさせるほうがいい。

 だが、昨年(2007年)だけで、1808人も山で遭難し、200名以上が死亡しているような事態など、辻先生も予想なさらなかったに違いない。
 「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」がどこにもなくなってしまった不幸までは辻先生も予想しなかったはずである。