ある劇評の書き出し。
このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛」に出会うことができた。
宝塚星組の「赤と黒」(スタンダール原作)の劇評で、小田島 雄志の「芝居よければすべてよし」(「読売」/08.4.19)から。
劇評についてはふれない。
ただ、「このところ舞台でも世間でも『やわな愛』を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか疑問を感じた。というより、この劇評家はこういうふうに考えるのか、と私が考えただけのことだが。
「やわな愛」といういいかたから、私はエリッヒ・フロムを思い出した。かつて、世界的に読まれた思想家である。彼の著作『愛するということ』は、わが国でもベストセラーか、ベタセラーになったはずである。
その冒頭の部分に、
愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない。
とあった。この思想家の意見では――ある人の愛がみたされることは、その人が隣人を愛し得る力をもっていて、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては到達できないもの、ということになる。私の曲解ではない。本人がそう書いている。
だが、はたしてそうか。
私は書いたのだった。
ダンテのベアトリーチェへの愛や、バオロとフランチェスカの愛は、誰でもが手がるに耽溺できるような感傷的なものではなかった。だが、人は、いつもダンテスクな愛だけをもとめているはずはないし、手がるに耽溺できるような感傷的な愛であっても、当事者にとっては、まぎれもない人間的な真実なのだ、と。(『メディチ家の人びと』/第九章)
私は、このエリヒ・フロムを軽蔑する。おなじような意味で、「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか傲慢なものを見る。
たしかに、「やわな愛」を見せられつづければ、いや気がさすことはわかる。しかし、『赤と黒』が書かれた時代、フランスの舞台や、世間には「やわな愛」ばかりだったに違いない。とすれば、どういう時代の「愛」だって、手がるに耽溺できるような感傷的な愛ばかりなのだと見たほうがいい。
人間の一生は、食ってはひって、やって寝るだけ、という江戸の庶民の卑俗な人生観を軽蔑するのはたやすいが、そういう人生観のなかで、卑猥な川柳や猥雑な俗曲があらわれてきたことを軽蔑しない。まして、庶民の交情を、「やわな愛」などと私は見ない。
この劇評家は、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」などと書くべきではない。手ごたえ、たしかな反応というニュアンスで「歯ごたえ」と表現していることもいかがなものか。