(つづき)
現在の私たちの環境で、ツヴァイクほど痛烈に学校教育をこきおろす人はいないだろう。当然ながら、ツヴァイクは二十世紀の教育を受ける子どもたちを心から羨望している。
二十世紀になってからの子どもたちは、幸福に、自由に、独立して子どもじだいを過ごせるようになっている。そのことにある種の羨望を禁じえない、とツヴァイクはいう。
子どもたちはなんのこだわりもなく、先生たちと対等に話しあっている。誰も不安をかんじないで通学している。しかも、若くて好奇心にみちた魂からはっする願いや好みを学校でも家庭でも公然と口にできること、そのようすを見ると、私(ツヴァイク)自身は、あり得べからざることに見える、と。
そんなふうにいわれると、私などは、なんとなく居ごこちがよくない。
学校の先生に対しても、ツヴァイクの見方はきびしい。
彼らはよくもなくわるくもなかったし、暴君でもなければ、助けになる味方でもなく、哀れな連中だった。前例や、文部省で予定された教科の課程に、まるで奴隷のようにしばりつけられて、生徒が自分たちの「課題」を片づけなければならなかったように、先生も自分たちの「課題」を片づけなければならなかったのだ。
と憐憫とも侮蔑ともつかないことばを投げつけている。先生は生徒を愛してもいなかったし、憎んでもいなかった。「なぜかというと、彼らは、われわれについて何も知らなかったからである」と。
私たちの環境でも、こういう先生がいないとはかぎらない。