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 古雑誌の整理。自分の書いたものが掲載されていたりする。焼き捨てる前に読み返す。こんな文章があった。

   久しぶりで、「近代文学」が機会をあたえてくれたので、しばらく勝手な仕事をさせて頂くことになった。
   自分でもまるで自信がなく、もしかすると、途中で力つきて、あるいは、あきて投げ出すかも知れないが、かなり長いあいだ書きたかったものなので、思いきって手をつけてみた。こういう仕事は、どこでも歓迎してくれないし、にもかかわらず書きたいとなれば、今のうちに手がけておいたほうがいいと思う。
   もう、数年前に、ロドリゴに関してエッセイを書いたことがあった。ある雑誌のために書いたものだったが、これは発表されずに終わった。私は、そのときから、何度か断念したり勇気をふるい起こしたりしてきたが、「近代文学」の好意がなければ、こうして、チェーザレ、ルクレツィアという人間の姿をとって、ルネッサンスにあらわれる異様な情熱を描く決心もつかなかったろう。この連載が終ったとき、資料を列挙するつもりだが、私の読み得たかぎりでは、イタリアのマリア・ベロンキ、アメリカのジョーン・ハスリップの評伝が学問的には重要らしく、そのいずれにも、私は多くを負うものだが、文学的には、フランスのリュカ・ブルトンの評伝がいちばんおもしろかった。
   しかし、私のものは評伝ではなく、むしろへんな小説として読まれてもいいと思っている。
 --「近代文学」(1963年5月号)。連載、第一回の「あとがき」。

 この連載は「近代文学」廃刊のため、残念ながら中断した。
 当時、「近代文学賞」というものがあって、私の『ボルジア家の人々』も、この賞を受けたが、これは「近代文学」の人びとが連載を中断しなければならなかった私を憐れんで、あたえてくれたものではなかったか。

 のちに『海』の安原 顕が連載の機会をあたえてくれたので、あらためて『ルクレツィア・ボルジア』として完成した。

 今の私なら、マリア・ベロンキや、ジョーン・ハスリップよりも、むしろグレゴロヴイウスや、サバティーニをあげるだろう。評伝を書くむずかしさが身にしみてくると、グレゴロヴイウスや、サバティーニが立ち向かった時代のほうが、ルネサンス研究の進んだ現在よりも困難ははるかに大きかったと見ていい。
 この「あとがき」には、私なりの覚悟が語られている。若気の至りで、評伝を書くほんとうの困難に気がついていない。こうまで自分を納得させなければ仕事にならなかった自分が可哀そうな気もするが、一方では、若かったなあ、という感慨もある。

 長いものを書こうとすると、きまってさまざまな困難がやってくる。その都度、あっさり断念したり、ときには未練たらしくこだわったり、ときには必死に勇気をふるい起こしたりして、仕事をつづけてきたものだった。

 戦後すぐに私を認めてくれた「近代文学」の人びとに、あらためて感謝している。