戦争中にノエル・カワードを読んだ。少年時代、あの空襲の日々に、ノエル・カワードを熱心に読んでいた少年。自分でも信じられない。
たしかに、16歳の私はノエル・カワードを読んでいた。原書を読んだわけではない。『若気のあやまち』(飯島 正訳/昭和10年/西東書林)で、はじめて彼の戯曲を知ったのだった。
翻訳した飯島 正の名前も心にきざみつけた。
戦局の悪化にともなって、中学生も上級の学校にスキップできることになって、私は、中学4年(いまの高校1年)から大学に入った。
そして、幸運にも飯島 正の講義を聞いた。週に1コマ、リュミエールからの、おもにフランスを中心にした映画史の講義だった。私はもっとも熱心な学生のひとりだったと思う。
ある日、教室に入ってきた飯島先生は、私たちの顔を見つめながら、
「今日の講義は……ほんとうはふれてはならないとされていることなのですが……映画史としては落とせない部分なので、とりあげておきます」
と語った。
飯島 正はエイゼンスタインの「戦艦ポチョムキン」を紹介しながら、ソヴィエト映画の大まかな歩みを教えてくれた。
このとき、私は、知識として、ジガ・ヴェルトフや、プドフキンといったロシアの映画人の仕事をはじめて知った。飯島 正は分厚な本に出ている写真を学生たちに見せてくれたのだった。
そのときまで何ひとつ知らなかった私は、ロシアでは何かまったく違った種類の映画がおびただしく製作されているらしいと思っただけだった。
この講義の内容を警察なり憲兵に密告するような学生がクラスにいたら、飯島 正は検挙され、治安維持法違反で、ただちに投獄されたはずだった。
今の私は、当時の少年たちに何かをつたえようとしていた飯島 正に感謝する。少なくとも、何も考えなかった少年に、はじめて外国にはまったく違ったイデオロジックな映画が存在することに気づかせてくれたのだから。
(つづく)