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 (つづき)
 リーヌ・ノロは、残念ながら岸田 国士のエッセイを知ることがなかった。
 知らないのが当然だろう。当時の日本の劇作家の片々たるエッセイが、フランスの演劇ジャーナリズムに紹介されるはずもなかったからである。

   「僕が特に「新劇女優」と呼ぶ所以は、彼女が、その驚くべき舞台的成長にも拘はらず、毫も芸人的「粉飾」によって自らを目立たしめようとしてゐないからである。言ひ換へれば、その扮する人物の、厳粛素朴な構成を最高度に生命づける「芸術的演劇」の精神が、彼女の前進に漲ってゐるのを感じたのである。」

 もし、これをリーヌ・ノロが読んでいたら、どんなにうれしく思ったことか。
 さすがに一流の劇作家らしく、この女優の本質をみごとにとらえている。と同時に、「文学座」をひきいた岸田 国士が思い描いていた「新劇女優」のタイプが、どういうものだったか。そのあたりも想像できるだろう。
 そして、このエッセイの背後にもう少し重要なことが読みとれる。
 岸田 国士は、リーヌ・ノロに、「よき環境に置かれ、よき指導者を得、彼女は遂にこれまでになったのだ」という手放しの賞賛の背後に、「よき環境」もなく、「よき指導者」もいない日本の「新劇」の状況に対する憂慮である。
 昭和12年(1937年)に、岸田 国士は、岩田 豊雄、久保田 万太郎とともに「文学座」を創設する。

 リーヌ・ノロは、その後の日本の俳優、女優たち、とくに演劇関係の養成所、研究所といった機関が整備されるような「よき環境に置かれ、よき指導者を得」られる環境作りに貢献したといえるかも知れない。
       (つづく)