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 戦後の私にとって、大きな衝撃になったできごとの一つに、フランスの女優、リーヌ・ノロの自殺がある。

 私が評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかでふれた女優、リーヌ・ノロは、もはや誰の記憶にも残っていないだろう。まして、彼女について書くような人はいるはずがない。

 戦前のリーヌ・ノロについて、岸田 国士がエッセイを書いている。
 『現代演劇論』(白水社/1936年刊)を読み直していて、思いがけず「女優リーヌ・ノロのこと」というエッセイを発見した。いまさら不勉強を弁解してもはじまらないが、このエッセイに気がつかなかったのは、岸田 国士がルイ・ジュヴェに言及していないからだった。
 このエッセイを知らなかった私は、評伝、『ルイ・ジュヴェ』でリーヌ・ノロにふれている。
  〔『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第九章)〕

 岸田 国士のエッセイについてふれておこう。

 1934年、ゾラ原作を映画化した「居酒屋」を見た岸田先生が、ヒロイン、「ジェルヴェーズ」を演じていたリーヌ・ノロを見て、それに触発されて書いたエッセイ。

   「が、何よりも僕を感動させたのは、この物語の女主人公ジェルヴェエズに扮するリイヌ・ノロといふ女優が、十三年前、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の学校で、一緒にコポオの講義を聴いていた一研究生であり、その少女が、今、スクリインの上で、この大役を堂々としこなして、天晴れな成長ぶりを見せてゐることだった。
    彼女はたしか、僕の識ってゐる期間に於ては、平凡な一研究生として、二三度、ヴィユウ・コロンビエの舞台を踏んだことを記憶してゐるが、過分な役を振られて胸をおどらし、コポオの噛みつくやうな小言を浴びながら、臂を左右に張って、おろおろと台詞を吐き出してゐた。」

 やがて、岸田 国士は日本に帰国する。帰国して翌年(大正13年)、『チロルの秋』で劇作家として登場する。そして、「ヴュー・コロンビエ」の解散を知るのだが、その後のリーヌ・ノロをはじめ、いろいろな人たちの消息をしらないままに過ごした。
 「文学座」をひきいた岸田 国士は、このエッセイを書いた翌年、昭和10年(1935年)には『澤氏の二人娘』を書いている。
 もう一度、リーヌ・ノロについて書いた部分に戻ろう。

   「この映画に現れた彼女は、僕の観るところ、定めし「よき修行」を重ねたに相違なく、再会の喜びを割引するとしても、当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆を認めさせるものであった。」

 私たちはゾラ原作の「居酒屋」を見たが、これはマリア・シェルが「ジェルヴェーズ」を演じたリメークだった。マリア・シェルも、戦後の名女優のひとりだったが。
    (つづく)