(つづき)
彼は語った。
少年時代、サンクト・ペテルブルグの陸軍士官学校の生徒だった。ある日、学校に哲学者、ベルジャーエフが招かれて講演した。その内容はすばらしいもので、少年の彼は感激したのだった。いまでも、その内容は心に残っている。その後、異郷のパリで、くじけずに生きてこられたのは、このときのベルジャーエフの思想が自分の内部に生きているからだ、というのだった。
私は熱心に彼の話を聞いていた。士官学校の講堂で、困難な時代におけるロシアの運命について、さらには若い士官候補生たちにむかってロシア人としての使命を諄々と説いていた哲学者、ベルジャーエフの姿が眼にうかぶようだった。
この講演には、ツァーの代理として、皇弟、イポリートが出席していたという。
この老人と話した時間は、おそらく十五分か、せいぜい二十分程度だったのではないか、と思う。
私は、この老人の話になぜか感動していた。彼が私に嘘を語ったはずはない。まったく縁もゆかりもない東洋人を相手に、それ以来のベルジャーエフに対する親炙と、心からの敬意を語ったところで、何の得にもならないのだから。
もう、40年も前のことである。最近になってそんなことを思い出したところで、あまり意味はない。この初老のタクシー・ドライヴァーとの出会いが、その後の私の生きかたになんらかの作用をおよぼした、とは考えられない。
だから、あまり意味もないと承知の上でいうのだが、この夜の私は幸福だった。おそらく、タクシーの運ちゃんも、私とおなじように幸福だったのではないかと思う。
パリを見物にきている日本人の若い旅行者が、まったく偶然にロシアの哲学者のことを論じるなど、まずあり得ないことだろう。おなじように、革命のとばっちりで、若くしてパリに亡命したロシア人が、偶然、自分の車に乗った旅行者を相手に、士官候補生だった頃から尊敬してきた哲学者の話をするなどということは、まずあり得ないことだろう。
こういう幸福が、どういう性質のものだったのか分析したところで、何が見つかるものでもないが、お互いに親しい友人のことを熱心に語りあったようなような気がする。
彼の名前も知らない。むこうも私の名前を知るはずもない。ただ、それだけのことだが、私にとってのパリは、この初老の運転手の思い出に重なっている。