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昭和15年(1940年)、私の父、昌夫は「石油公団」に移籍した。このため、私の一家は仙台を引き揚げて、本所で住宅を探すことになった。
 私の叔父、西浦 勝三郎が小梅二丁目に空き家をみつけてくれた。

 戦前、大不況のあおりを食らって廃業した小さな銀行の小さな支店。二階建て。外側は、どこでも見かける西洋館だが、そのまま「明治村」に移してもおかしくない古風な建物だった。もともと銀行だった建物なので、住宅に転用することもむずかしい。地権者は、この廃屋をとり壊して更地にする費用を考えて、そのまま放置しておいたのかも知れない。
 近くの製薬会社が借りて、薬品原料を保管する倉庫に使っていた。(注)

 この建物の横からうしろに、まるでへばりつくようなかたちで住宅が建てられていた。L字型の家という、まことに奇妙な構造の家だった。
 当時、住宅が払底したが、どういうわけか、一戸建てなのにこの家は空き家で借り手がなかった。たまたま空いたので、私たち一家が住むことになったのだった。

 とにかく、へんな造りで、玄関からすぐに三畳、その先に六畳、ここから右手に階段。階段をあがってすぐに横に三畳、その先が四畳半。その左に三畳(これが、玄関の上にあたる)。

 あとになって意外なことを知った。この家は、賭博専門に作られた家という。
 外から見れば、なんの変哲もない仕舞家(しもたや)だが、玄関の上にある三畳は、いわば見張りのための部屋。不審者や警察が玄関先から襲っても、二階の連中は、どこからでも逃げられる。

 当時も、住宅は払底していた。この家はたまたま空き家のままになっていたものを、叔父の西浦 勝三郎が見つけて、すぐに借りてくれた。私たちは、鉄火場とも知らずに入居したのだった。

 私の考えかた、生きかたが世間さまのそれと違うのは、子どもの頃からこんな家に住んでいたせいかも知れない。(笑)