はじめて、アメリカのグラフィック・ポルノを見たのは、戦争の末期だった。とても信じられないことだが、これは事実である。
戦時中、学徒動員で、私は川崎の石油工場で労働者として働いていた。隣りに、「日本鋼管」の工場が続いて、そこの一角に、竹矢来で囲んだバラックが建てられて、アメリカの兵士たちが収容されていた。ここに収容されて、「日本鋼管」で働かされていた捕虜は、おそらく50名程度だったと思う。
私たちは昼休みに、その付近に出かけて、アメリカ兵たちにタバコをくれてやったり、カタコトの英語で話しかけたりするようになっていた。
むろん、警戒に当たっている憲兵の眼をおそれて、ほんの数分、接触するだけだったから、たいしたことを話したわけではない。
ある日、私は作業中に指先に怪我をしたので、工場から歩いて15 分ばかり離れた医務室に行った。
処置を終わって工場に戻る途中で、私たち学生(40人ばかり)の指揮をとっていたS、副長のIが、地上に何かひろげて眺めていた。たまたま通りかかった私は、二人によって行った。
アメリカの捕虜に配給のタバコをわたしてやったお礼にくれたという。
「ライフ」とおなじサイズのグラフ雑誌で、全編、モノクロームだが、男女の性行為の写真と、短いキャプションがついていた。白人の男女がさまざまな体位で交わっている。そのときの私は、白人の「女」たちを「醜い」uglyとは思ったが、その性交を撮影したグラヴュアを「汚い」dirtyとは感じなかった。
むろん、男と女の行為が撮影されていることに驚かされたが、それよりも、きわめて厳重な身体検査を受けたはずの捕虜たちがどうやってこんなものを収容所に持ち込んだのか、そのことにはるかに大きな驚きをおぼえたのだった。
川崎の石油工場で働いていた時期のことは、長編『おお、季節よ、城よ』に書いたが、戦争の末期にアメリカのグラフィック・ポルノを見たことは書かなかった。
その後、私はアメリカで多数のポルノを見たし、クロンハウゼン夫妻をはじめ、モラーヴィア、スーザン・ソンタグ、ジョージ・スタイナーなどの「ポーノグラフイー論」を訳した。そのかぎりにおいて、低いレヴェルではあったが、研究者のひとりだったといえるかも知れない。