804

 
 女優の魅力。なかなかつたえにくいものの一つ。(私が言及しているのは、映画雑誌にあふれている記事のことではない。)

    (前略)最後に荒木道子のヘードイッヒを推賞して此稿を結びたい。荒木道子は、演劇芸術について、どういう経歴を有つ人か筆者は一向に知らないが、ヘードイッヒに扮し、この公演に於ける第一の功労者であったことを特筆したい。殆ど原人の姿を呈し、可憐で、神秘的で、父親思いのいじらしい娘を心にくいほど表現してゐた。十四歳の役としては幾分ませたところも見えたが、其一挙一動悉く快い感じを与へる演技で、そこには少しもワザとらしいものがなく、自然で、純真で、そして寂しい影のまつはるような娘であった。人の親として、此子の為ならば一命をも惜まないと思はせるほど親想ひの情も溢れてゐた。全く良きヘードイッヒである。筆者はかつて酒井米子のヘードイッヒの可憐な事に注目したが、今回荒木道子の之を見て、演出演技の進歩したことと同時に此女の秀抜な芸に目を瞠つたのである。

 これは、1940年(昭和15年)、「文学座」が上演したイプセンの『鴨』(今は、一般に『野鴨』で知られている)の劇評の一節。筆者は、安倍 豊。
 劇評で新人女優がこれだけ賞賛されれば、やはりうれしいに違いない。日本がアメリカと戦争する前に、荒木道子がもっとも将来性のある新人として期待されていたことがわかる。
 私は中学生だったが、この芝居をわざわざ見に行っている。内幸町の角にあった劇場で、狭苦しい階段をあがってゆくと、いきなり客席という小劇場だった。
 イプセンについて何も知らなかったが、新劇の芝居を見たかった。
 当時、「文学座」の研究生として、賀原 夏子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子たちがいたが、荒木道子はその先頭を切っていた。

 彼女が女優として大きく発展するのは、やはり戦後の季節からだった。
 私は「文学座」の芝居を見るたびに、飛行館の芝居を思い出したものである。

 その後、私は、偶然のことから、NHKの連続放送劇のスタッフに起用されたため、スタジオでも荒木 道子と口をきくようになった。私の眼には荒木 道子が大女優のように見えた。
 このドラマに出ていた「文学座」の南 美江(戦前の「宝塚」のスターだった)は別格として、私と同世代の、七尾 玲子、加藤 道子(放送劇団出身)や、「民芸」の新人で、この連続放送劇のヒロインに抜擢された阿里 道子たちのなかで、女優、荒木 道子はいつも一歩先んじているようだった。

 ある日、ある集まりで、どうしたわけか芥川 比呂志がしきりに私にからんできた。思いがけないとばっちりだった。その内容は、銀と緑は、色彩としてけっして両立しない、といったことだったが、暗に、私がひそかに好意を寄せていた女優と、まったく才能のないもの書きでは不釣り合いだということを諷刺したらしい。
 このとき、そばにいた荒木 道子が芥川をたしなめるようにドイツ語で何かいった。
 あとになってそのことばの意味を知ったが、「こんな子どもを相手にするのはよしなさい」という意味だったらしい。
 私の内部で何かが壊れた。芥川 比呂志に対する怒りではなく、荒木 道子に対するファンとしての親近感が。