批評というものは、おもしろいものだ。批評家が、ある作家の作品を読み違える。当然、まっとうに評価できない。
よくあることで、別にめずらしいことではない。
サント・ブーヴは、スタンダールの『赤と黒』にさして高い評価をあたえなかった。
「ジュリアン・ソレル」について、家庭内の葛藤に巻き込まれたロベスピエールよろしく、卑劣で、忌まわしい「怪物」と見ている。「小説の人物たちはまったくイキイキとしたところがなく、ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)さながら」と酷評している。
サント・ブーヴをフランス文学最高の批評家のひとりと見てきたが、こういう批評を読むと、さすがにあきれてしまう。
ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)という批評から、こんな批評を思い出した。
神のおつげと妻のさそいによって主君を殺し一城のあるじとなるが、やはり神のおつげどおりに人望を失ってしんでゆく侍の宿命をえがいた映画である。
(中略)
主人公の妻が狂うのも、千秋 実の役の死も必然性がない。三船(敏郎)、山田(五十鈴)らの演技はうまくてもこわいものみせたさのつくりものの感じだ。それにこの映画は大モッブシーンはあるが「七人の侍」のような合戦シーンがない。それが迫力を欠いている。
(中略)
この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ。それがまた映画のねらいであるとしても、何ものかにひき回されている人間をえがく場合、もつと人間の積極性を一面にえがいてみせたほうが皮肉がきいて宿命観がつよくひびくのではないか。黒沢(明)のはじめての哲学のない映画であり、気まじめすぎた凡作。
試写室で「蜘蛛巣城」を見て、すぐにこの映画評を書いたらしい。(「デイリー・スポーツ」昭和32年1月)
筆者はこの映画が、シェイクスピアの『マクベス』の翻案ということに気がついていない。少なくとも、そういうことをまったく考慮していない。しかし、「この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ」と見たなら、「黒沢(明)のはじめての哲学のない映画」と判断できなかったはずである。
にもかかわらず、黒沢(明)らしからぬ「哲学のない映画」で、気まじめすぎた凡作、と評価した点に、この映画評のおもしろさがある。
今のように、黒沢(明)が最高の映画人として崇拝されている時代には、誰も「蜘蛛巣城」を凡作などと切り捨てることはできないだろう。
私は「蜘蛛巣城」を黒沢(明)の傑作と見ている。ただし、映画の傑作とは見ていない。オーソン・ウェルズの「マクベス」よりはマシだが。