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 前に書いたのだが、いちばん先に小説にラジオを登場させたのは、菊地 寛という。
 では、SF(空想科学小説)以外で、いちばん先に小説にテレビを登場させたのは、誰か。これは、わかっている。中田 耕治である。
 まだ、影も形もなかったテレビをわざと書きとめておいた。テレビが、現実のものになると確信していたからだった。

 それでは、映画をいちばん先に小説に登場させたのは、誰か。これが、わからない。

 活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、トーキーが登場してからのことと考えていいのだが、現実に「映画」が小説に登場するのは、いつ、誰によってなのか。

 佐藤 紅緑の長編『半人半獣』に、

    朝彦は今まで活動写真を見たことは数へるだけしきゃなかった。一度彼は日本の写真を見て其(その)妖怪の様な顔、岩の様に硬い線、下卑た女優の表情、丁髷(チョンマゲ)を結って尻を捲った不作法な動作などに肝を潰した。

 とあって、「活動写真」は「写真」と表記されている。この「写真」は、新撰組の近藤勇が、勤王の志士と乱闘になる。つぎの写真は、侠客、国定忠治である。
 主人公が、つぎに見る映画は「ソドムとゴモラ」という「西洋写真」である。

 おなじ佐藤 紅緑の長編『愛の巡禮』に、

    露子さんは至って話材が乏しかった。彼女は食物や衣服や、映画役者の批評より他には何も語ることが出来なかった、自分の住んでいる映画界が全世界の様に思うて居る風すら見えた。 (『愛の巡禮』「骨肉!」)

 とあって、こちらでは「活動写真」の役者ではなく、「映画役者」、「映画界」という概念があらわれる。「骨肉!」は、第14章に当たるのだが、もう終結に近い「戀の亂射」では、

    彼女等は映画俳優の人気者浦田相州を覗いて居るのであった。

 となる。この連載が進行中に、「映画役者」が「映画俳優」に変化している。どうやら映画スターに対する崇拝(ウォーシップ)という「大衆状況」に関係があるのではないだろうか。

 「浦田相州」というネーミングには、早川 雪州のイメージがあるだろう。
 昔の小説を読んで、あらぬことまで考える。私の悪癖。