カルミネ・ガローネという監督がいた。イタリアの無声映画からの監督で、歴史もののスペクタクルで有名だった。戦後、日本の新人女優、八千草 薫を起用して、全編オペラの「蝶々夫人」を撮っている。
そのガローネがジュール・ヴェルヌの『ミッシェル・ストロゴフ』を映画化した。戦前に「大帝の密使」として作られた映画のリメイクということになる。これに、クルト・ユルゲンスが主演している。
ロマノフ王朝に反乱を起こしたダッタン族に、イルクーツクが包囲される。
そこで、モスクワから、イルクーツクの守備隊に皇帝の密使がつかわされる。身分をかくすために、ひとりの可憐な美少女が妻という名目で同行するのだが、これがジュヌヴィエーヴ・パージュ。
この映画でも、クルト・ユルゲンスは堂々たる押し出しで、圧倒的な演技を見せていた。重厚なクルト・ユルゲンスに対して、ジュヌヴィエーヴもわかわかしく、魅力もあふれていたから、映画がおもしろくならないはずはない。
ところが、この映画、まるっきりおもしろくなかった。
カルミネ・ガローネの大時代な演出もこの映画をひどくつまらないものにしていた。日本での公開もおそらくコケたのではなかったか。
この時期、すでにフエデリーコ・フエリーニの「道」が登場している。同時に、ベルイマンの「夏の夜は三度微笑む」も。カルミネ・ガローネの映画が見劣りしたのも当然だろう。私もこの映画には失望したが、それでも、インキジノフと、ジャック・ダクミーヌが出ていたので、この映画を見てよかったと思った。
インキジノフは無声映画の大スター。私は見たことがなかった。デュヴィヴィエの「モンパルナスの夜」公開当時、私は5歳ぐらい。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、偶然、BS11で「カザノヴァ」を見た。ジュヴェの恋人だったマドレーヌ・オズレイが出ていたので、この映画を見たのは大きなはげみになった。
ジャック・ダクミーヌは、戦後(1951年秋)、エドウィージュ・フゥイエールが「エーベルト劇場」でやった芝居に起用された新人だった。どういう俳優なのか見ておきたかった。
私の場合、その映画一本を見ることで得られるものは多かった。
その映画が暗黙のうちに見せているもの、あるいは、ちょっと見ただけではわからないもの、ときには見えないものを「見る」こと。
・・・・うれしかったのは、まだ世界的なスターになる前の、新人女優、シルヴァ・コシナが出ていたことだった。(ユーゴスラヴィア出身の女優である。シルヴァ・コシナが好きだった常盤 新平も、おそらくこの映画、「皇帝の密使」のシルヴァは見ていないだろうと思う。)
私は、つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味だった。つまらない映画を見ても、いろいろ考えることはできる。
たとえば、クルト・ユルゲンスという俳優は、どうしてこんなつまらない映画に出るのだろう? しかも、ほかの俳優がまるでダメなときでも、彼だけはどうしていい芝居をしているのだろうか。
私は、そんなことばかり考えていた。
映画について、とくにその映画に出ている俳優、女優について考えることは、私にとって、芸術について考えることにほかならなかった。
そして、芸術について考える私について考えることだった。
だから、マリリン・モンローについて私なりのモノグラフを書いた。ルイ・ジュヴェの評伝を書いた。