森田 たまは、戦前から戦争中にかけて、名随筆家として知られていた。
作家の素木 しづのことを調べていて、森田 たまの随筆にぶつかった。「素木 しづさんの思ひ出」という文章で、『随筆 貞女』(昭和12年/中央公論社)に収められている。
この『随筆 貞女』にこんな文章がある。
花柳章太郎さんの随筆集「べに皿かけ皿」を読んで、何か感想をのべてみたいと思つてから最早まる一年も経つてゐる。そのあひだじゅう一度も忘れたことがなく、いつも心に思ひながら一年経つてしまつたのだから、われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質だともおもふ。さうしてどうやら、このあつさりしてゐるやうで、なかなかねつい、性急のやうで気の長い性質は花柳さんもよく似てをられるやうな気がするのである。おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家で、と私は日頃から自分で考へてゐる自分の性質を、そのまま花柳さんにあてはめてもまちがひはないやうに思ふのだけれど、ひょつとすると、それは私の希望の影にすぎないのであるかもしれない。好きな人や崇敬する人物の中に、つねに自分とおなじものを見出したいとねがふ人間の本性にたがはず、私もやはり、花柳さんの中に己れを見出さうと、しらずしらず願つてゐるのかもしれないのである。
こういう文章が名文だったのか。それはいいとして、森田 たまはこの文章のいやらしさに気がついていない。ご本人がまるで気がついていないところが不愉快である。
「われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質」という女性が、すぐに「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」は、「好きな人や崇敬する人物」たる花柳さんもよく似ているような気がする、という。
これは、自分をほめるのにじつに便利ないいかただと思う。
「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」だとさ。たいていの女性は、自分のことをその程度には見ているだろう。
私だって、「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」のひとり。
「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」でもなければ、もの書きなんぞやってられっか。
森田 たまの素木 しづ回想を読んで、ひどく不快なものを感じた。