養老 孟司先生が、宮崎 駿という映画監督と対談なさっている。
そのなかで、宮崎先生が、
先がどうなるかわからない、それこそが生きるってことですよね。(中略)そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。
とおっしゃる。これを受けて、養老先生が、
『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。
私は平凡なもの書きなので、お二人のことを批判するわけではない。ただし、ここから別のことを考えはじめた。
「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」ということに関連して、私は映画スター、クラーク・ゲイブルのことば(1932年)を思い出した。
ハリウッドにきてから、たった2年しかたっていないが、映画界に関するかぎり、2年というのは、じつに長い時間だ。にもかかわらず、私は映画に関して、ごく一部についてさえ自分の意見をもとめられたことはない。(中略)ある日、セットに入ると、私がジョン・マルバートに代わって「紅塵」(ジーン・アーサー主演)に出演することになっている、と告げられた―― 私は、どの役をやりたいかと相談されたことは一度もない。私は自分の考えをもたないことで、金をもらっているのだ。
クラーク・ゲイブルのような大スターなら、「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」と覚悟しても生きて行ける。しかし、いくらハリウッドのスターでも、クラーク・ゲイブルのような人ばかりとは限らない。
1930年代、ハリウッドの黄金時代のスターたちを一本の映画からつぎの映画にかりたてて行った圧力の凄まじさを考える。当時のハリウッドで、酒や、ドラッグ、セックスに溺れて破滅して行ったスターたち、スターレットたちの物語が無数にころがっている。(今だって、あまり変わらない。)
先がどうなるかわからない、それこそが生きることに違いないが、えらい人は別として、そう、あっさりと口にはできない。
『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。
ほんとうに、『お先まっ暗』と思ったとき、なおかつ、この世をおもしろいと達観できる人がどれだけいるだろうか。
養老 孟司先生のように、脳の大学者で、人生で挫折など経験したこともナイばかりか、たてつづけにベストセラーを出すような人は別として。