761

 ある訳がほんとうに創造的な訳になっているかどうか、たとえば戯曲の訳を読むとはっきりわかってくる。

・Dorothy:   What a nice looking boy Pat is growing! You’ll have to keep an eye on him,darling.You know what women are.
Margery;    Oh,I’m not frightenrd.He’s absolutely innocent.And he tells me everything.

 Dorothy:   They talk a lot of nonsence about the young nowadays.I don’t believe they know half as much as we did at their age.

 Margery;   I wish they wouldn’t grow up so quickly.When Pat came back from school this morning,it gave me quite a shock.
 Dorothy:   I don’t care.It’s not like before the war.People don’t grow old like they used to.When Dinah and I go out together we’re always taken for sisters.

 ――これは、ある英文解釈の練習に出ていた問題の一部で、サマセット・モームの戯曲からとられたもの。イギリスのブルジョア女性の会話だが、つぎに出題者の訳例をみよう。

ドロシー パットはなんてハンサムな青年になってきたのでしょう。あなた気を付けなければいけないわ。女がどういうものかって、御存知でしょう。
マージャリ あら、その点心配無用なの。あの子、それは無邪気なのよ。それになにもかも私に打ち明けて話しますの。
ドロシー 近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね。でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ。
マージャリ 体ばかりどんどん大きくなるのは、こちらに迷惑だわ。午前中にパットが帰省したんですけれど、その姿を見たら、とてもショックでしたよ。
ドロシー 私は気にしないわ。戦前とは違いますもの。近頃は昔と違って誰もおばあさんにならないんですよ。私なんか、娘と一所に外出すると、いつも姉妹だと思われるの。

 英文解釈の問題なのだから上演を目的とした訳になっていなくてもいい、と考える人がいたらそれは誤りだろう。戯曲として書かれている以上は、あくまで上演を目的として訳すべきではないか。
 短い部分ながら、イギリス風俗喜劇の女たちの何でもない台詞の背後に、さすがにモームらしい、のうのうとした、しかも一種傲然たる表情が見えてくる。ところが、この訳例は、はじめから上演不可能で、そもそも舞台の台詞になっていない。全体が、ひどく平凡な説明ばかりで、その人物(キャラクター)の姿が浮き彫りになるような台詞は一つもない。
 「女がどういうものかって、御存知でしょう」という台詞は、なかなか意味深長で、(いずれは)年上の女が「パット」のような美少年に目をつけるわよ、という、かるいが辛辣な揶揄と、かならずしも無邪気とはいえない恫喝まで含んでいる。ところが「女がどういうものかって、御存知でしょう」という訳では、さりげない台詞の裏にひそんでいるモームのおそろしさ、いやらしさ、凄さが感じられない。
 「女たちがほっとかないわね」と訳せば、「ドロシー」の揶揄ばかりではなく、いい息子をもった友だちに対する一種の岡焼きめいた感情も出せるだろう。
 ところで「近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね」というのが、ブルジョア夫人の台詞だろうか。「でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ」という訳で、読者(観客)に何がわかるのか。
 こういう訳は、いわゆる「こなれていない訳」だが、同時にドラマの緊迫を無視した、つまりはクリエーティヴではない訳。

 おもしろくない訳。