翻訳という仕事、外国語を日本語に置き換える作業とはどんなものなのか。
一昔前だが、日本語はヨーロッパ系のことばとはじめから成り立ちが違うのだから、ほんとうのところ翻訳は不可能だという意見があった。なんと夏目漱石の門下だった野上豊一郎の「翻訳論」に、こういうアホウなことが書いてあった。
なんという、つまらない考えだろう。
たとえば――シェイクスピアの『マクベス』の登場人物、マクダフが、冷酷なマクベスの支配する祖国の現状をなげいて叫ぶ、有名なセリフがある。
原文は“O Scotland,Scotland!”である。誰が訳したって、「おお、スコットランドよ、スコットランドよ!」ぐらいしか訳せないだろう。
この簡単な三語をとりあげて――イギリスの俳優がわきあがるような声量のなかに憤怒(ふんぬ)と痛恨をこめて大空に叫び上げる調子を想像してみたまえ。日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない、といったヤツがいる。
やれやれ、またか。
なるほど、この三語のなかには母音が五つあって、その五つとも日本語よりも幅がひろいことは認めなければならない。日本語にはない強弱のアクセントのはげしい効果がある。シェイクスピアはすごいなあ。私にしても、イギリスの名優たちが、舞台で、このセリフを声に出しているところを想像しただけで胸がおどる。
ところが「日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない」となれば、シェイクスピアを翻訳したって仕方がないことになる。
こういう考えかたは、表面は正しいように見えながら、じつは間違っている。もし、そういういいかたをすれば、私たちにはチェホフの戯曲もわからないことになるし、アメリカの映画だってほんとうはわからないことになる。
冗談じゃない。
いい翻訳、すばらしい翻訳は、こういうアホらしい考えかたからはうまれてこない。