女性作家、ジョルジュ・サンドは、後輩の作家、フローベールにあてた手紙で、
あなたの作品は悲しみをもたらしますが、私の作品は人をなぐさめます。
と書いた。
この一行から、ただちにいろいろなことを考える。
「悲しみをもたらす」にせよ、「人をなぐさめる」にせよ、ふたりはそういう作品を書いた作家だということ。
あるいは、アプリオリに「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えなくても、結果として、そういう作品を書いているという強烈な自負をもっていたこと。
現在の作家が、自分の作品は「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えて書いているだろうか。
小説は読者に「悲しみをもたらす」ために、または「人をなぐさめる」ために書かれる必要はない。現代小説は、はじめからそうした設問とは無縁な場所から出発している。
その通り。
だが、その小説を読んで、なぜか深い「悲しみをもたらす」ことに気がつく。または、これとは逆に、心のどこかで「なぐさめられる」。現在の読者にしても、そういう昇華作用、浄化といった感動をもとめているかも知れない。小説が読まれなくなったのは、そういう読者の素朴な期待にこたえられなくなっているからかも知れない。