広瀬 淡窓(1782-1856)という漢詩人がいた。
全国に子弟、4千人を越えたという。えらい人だったのだろう。
淡窓の父は漢学者だったが、俳句が好きだった。ある日、父の門人がナマコを詠んだ句を見せた。
板の間に 下女とり落とす 海鼠かな
先生は道具だてが多いといって、この句を却下した。弟子は、
板の間に とり落したる なまこかな
と直して見てもらうと、だいぶ、よくなった。しかし、もう一息だといって、また返された。苦吟のはてに、弟子がもってきた句は、
とり落し とり落したる なまこかな
となっていた。
善哉、はじめて先生はこれを許した、という。広瀬淡窓詩話にある。
たしかに、「板の間に下女とり落とす海鼠かな」では、いかにも説明的で、月並みもいいところ。すこしもいい句ではない。
安岡 正篤はいう。
「が、分り過ぎて本当の処何を詠んだのか分からない。海鼠を詠んだにしては海鼠の海鼠たる所以(ゆえん)がちっとも躍動しておらない。板の間に娘の落すでも、板の間に童の落すでもまた好い。かなの二字で海鼠が主になっていることは分明だが、どうしても板の間や下女に気が散る。その板の間を去り、下女を除くに随って、海鼠がはっきり出てくる。掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる。ここだ。大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である。
これを読んで、広瀬 淡窓の父君に俳句を教えてもらわなくてよかったと思った。
ついでに、こんなエピソードをとくとくとつたえている広瀬 淡窓に軽蔑をおぼえた。
さらに、安岡 正篤の説明にムカついた。こんな解釈のどこがいいのか。
「とり落し とり落したる なまこかな」では、ただでさえ平凡な句が、もっともっとわるくなっている。こんな句のどこに「掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる」のか。この下女にナマコ三番叟でも踊らせるか。
この句の作者は、板の間に下女がうっかり海鼠をとり落としたことを詠みたかった。下女は、ナマコのように、えたいの知れないものに指をふれるさえおそろしかったのかも知れない。そうだとしても、ナマコを思わずとり落としたところにおかしみを見た作者の意図は、「とり落し とり落したる なまこかな」ではまったく消えているではないか。
「大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である」とは大仰な。
安岡 正篤の詩に関する発言を私はあまり信頼しない。