ル-ヴル美術館でも、ダヴィンチの「モナリザ」だけは、特別にガラス・ケースで保護されている。
私は、モナリザだけを見る目的で、毎日ルーヴルに通ったことがある。それまで写真や画集で見てきたものと違って、実物の「モナリザ」はほんとうに世界最高の作品だと思った。絵の美しさに感動したが、想像していたよりずっと小さな絵だったことにも驚かされた。
「モナリザ」を見たあとでは、すぐ近くの部屋いっぱいに展示されている巨大な「ナポレオンの戴冠」にも、隣の部屋に並べられているル-ベンスの連作にもまったく心を動かされなかった。
私は、世にも短い「ダヴィンチ論」を書いたことがある。
どうしようもない不勉強な作品だが、このエッセイを書いたことが後年、ルネサンスにのめり込むきっかけになった。
私の力では、ダヴィンチについて書くことはできなかったが、ある時期、ダヴィンチについて書く準備をしたことがあった。むろん、しばらくして断念したのだが。
「モナリザ」のモデルについては、いろいろな説がある。
私ごときにはモデルが誰なのかわからない。もっとも注目すべき説は、田中英道氏の研究で、「モナリザ」のモデルを、マントヴァ侯夫人、イザベッラ・デステとしている。
イザベッラは、ルネサンスきっての才媛だった。ダヴィンチに自分の肖像画を描かせようとやっきになったが、どうしても描いてもらえなかった。
義弟の愛人、チェッチ-リア・ガッレラ-ニがダヴィンチに肖像画を描いてもらったと聞いたイザベッラは、半分口惜しまぎれに、ぜひ見せてほしいといった。
ベルガミ-ニ伯夫人になっていたチェッチ-リアは、その絵はあんまり私に似ていないけれど、自分が愛に溺れていた娘時代ではなくなっているからです、と答えた。
つまり、娘時代の私はダヴィンチが描いたとおりの美女だったというわけである。
イザベッラはかなりむかついたらしい。じつは、イザベッラの肖像画を描くつもりになったダヴィンチは、イザベッラの横顔のデッサンを描いている。
これもたいへんな傑作だが、中年にさしかかって、肥満しかけたイザベッラが描かれている。それがまたイザベッラには気に入らなかったらしい。
ダヴィンチはイザベッラが嫌いだったらしく、とうとう肖像画を描かずにフランスに去って、皇帝、フランソワ一世につかえた。
1519年、ダヴィンチはフランスで亡くなっている。
ダヴィンチについて書かなかったことを、ほんのわずかだが後悔している。