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あるコラムニストが語っている。

 京都で、「ぶぶづけでもどうどす?」と言われたら、「帰れといわれてるんだな」と解読する力が、品格として求められているのか知れない、と。

 それがわからなければ、ニブいヤツと思われる。だから、眼の動き、ことばの裏といった「ソシヤル・コード」に気配りが必要ということになる。

 私は京都という町の coldness (よそよそしさ)が好きではない。その理由は、相手に早く帰れという意味で「ぶぶづけでもどうどす?」というような表面の慇懃さ、その裏に酷薄なものが隠されているせいかも知れない。
 そんなものの解読が「品格」の条件なら、こっちから願い下げにしよう。

 あるとき、ある本を企画した。ある編集者に話をもちかけた。関西出身という。
 「考えときまっさ」
 といわれた。
 当然、彼が企画を検討してくれるものと思った。
 しばらくしてまた会ったとき、先日の企画はどうなったのだろう、と訊いてみた。相手はきょとんとしていた。
 いくらニブい私でも・・・「考えときます」ということばが婉曲な拒絶表現なのだと理解した。すぐに話題を変えた。
 むろん、その本の出版は断念した。

 こんな小さなことにも関東と関西の違いがある。これをしも「品格」の問題ととらえるべきなのか。
 もう一度くり返しておく。
 そんなことばの差違を文化の違いとして理解するのはいい。だが、それが「品格」の条件というなら、下品な私としては足蹴にしてやる。
 くそッ、ケタクソがわりィや。