早稲田大学では、新入生を対象にした「日本語の文章講座」をおこなう方針をきめた。(’07年10月19日)早稲田のような超一流の大学でさえ、学生の、読み書き、話す能力に危機感をもっているということになる。
私は早稲田の「日本語の文章講座」に賛成する。敬意をこめて。期待もある。
学生たちの日本語の理解、読解力、文章表現がいちじるしく落ちたのは、いまにはじまったことではない。私も大学で講義をつづけた経験があって、学生のリポートを無数に読んできたが、理路整然とした文章を書くことができない学生がふえてきている実感があった。
その責任は、すべて当時の文部官僚の失態にある。学校群、ゆとり教育、場当たりの思いつきを導入することで、教育を劣化させてきた連中の責任はあまりにも重い。
同時に、当時の中学、高校の国語教師にも責任はあったはずである。この時期、英語教育はいくらか充実したかも知れないが、これは会話中心のレベル・アップを目的としたもので、外国語の理解、読解力、文章表現が向上したとは思えない。
数年前、小学校から英語教育を導入させようとしたのは、当時の与謝野文相だった。教育のグローバル化という理由づけがあった。だが、基礎学力のいちじるしい低下があらわれたため、これは否定されて、あらためて国語教育が見直されている。
ようするに、読書量も足りないし、メールのやりとりなどで、短い文章を書いてすませる、よくいって機能的、わるくいえば日本語の語感に対する麻痺が進行している。
私は、フランスの小学生がラ・フォンテーヌを暗唱していることを羨ましいと思う。中国、雲南省の幼稚園で、幼い子どもたちが唐、宋の詩を嬉々としてそらんじるような教育をうけている。そのことを知って驚嘆した。
日本の小学生はこういうふうに古典を暗唱することはない。いまでは、桃太郎、花咲爺、猿蟹合戦といった民話さえ知らない子どもが多い。
神話も教えるべきだと思う。「記紀」を教えることは反動教育ではない。
万葉、古今、新古今を教えることは、「日本語の文章講座」に必須のものだと思う。
早稲田大学では、来年度は、二、三千人の新入生に「日本語の文章講座」を開始する。数年後には、約1万人の新入生全員を対象に実施するという。
目に見えて成果があがる、というものではない、しかし、数年後から数十年後にわたって、早稲田の歴史にあたらしい輝きをあたえるだろう。
ほかの大学でもおなじことが試みられればいいのだが。