「小説を書きたいのですが」
と彼女がいった。
「いいね。ぜひ、書いてみなさい。読ませてもらうよ」
「でも、どういうふうに書いていいのかわかんなくて……」
海はだだっぴろく、白茶けた色でひろがっていた。薄陽が射しているのだが、空も白茶けた色をしていて、空と海との境界はあいまいである。
その海に沿って、埃っぽい道が投げ出された帯のようにつづいており、その尽きるところに鼠色の灯台があった。
風景全体が、色褪せ、うっすらと埃に覆われているようだった。
「いい景色だな。とりとめがなくて、押しつけがましくないところが、いい」
と、彼が言った。
「ある短編の、ごく一部分だけど、これを読んでごらん。読むだけだから、一分もかからない」
・・・・・・
「これだけ読めば、小説を書くことがどういうものなのか、少しは想像できるだろう。わずか数行。この作家は、いつもこういう眼の働きをもっている。つまり、主人公の心の動きは、これだけでもよくわかるね」
「(先生の)おっしゃっていることがわかりません」
「もう一度、読み返して見なさい」
・・・・・・
「誰の文章ですか」
「そんなことはどうでもいい。いや、そういっても仕方がないか。では、教えてあげよう。吉行 淳之介の『海沿いの土地』。短編だよ」
・・・・・・
「きみは、小説を書きたいといったね。それなら、この一節を読むだけで、自分がどういう小説を書きたいのか、よくわかってくるだろう」
「(先生の)おっしゃっていること、やっぱりわからないわ」
・・・・・・
「いまに、きっとわかってくるさ」