(つづき)
作者の書きかたがわるいので、読者はよく考えて読まないと、わかりにくいところがあるかも知れない。私(為永 春水)の小説作法では、発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるのが常套手段なので、そのあたりはどうか心得て読んでいただきたい。
ストーリーに作者自身が登場する小説はめずらしくない。
発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるという方法も、伏線と見れば異とするにあたらない。
『梅暦』を第三編まで出したとき、その序文で、
今三編に到って首尾まったく整ひ、かく綴りし言の葉に、花の作者の毫(ふで)すさみは、悉く意気にして賤しからず、且わかりよくして優なる所あり、実に奇々妙々といひつべし
とある。「首尾まったく整」ったはずなのに、書きつづけるうちに人気が高くなったため、この11編では作家がストーリーの重心をシフトして、続編の展開に新工夫を迫られはじめたとも想像できる。
私が驚くのは、春水が「作者のつづりがあしきゆゑ、わかりがたかるくだりもあるべし」と書いたこと。
ここに作家の謙虚、または傲慢を見るのではない。
むろん、文学的な弁明ではないし、自己卑下でもない。
自作が、婦女子に淫行を教えるものと非難され、「もとより代が著はす草紙、大方、婦人の看客をたよりとして綴れば、其の拙俚なるは云ふに足らず、されど婬行の女子に似て貞操節義の深情のみ」と反論しているのと、おなじ姿勢である。
のうのうと人情本を書きつづけた春水の堂々たる自負を私は見る。