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 荒 正人は私をいちばん最初に認めてくれた批評家だった。私は18歳。
 その意味で私にとっては内村 直也とともに恩人といってよい。

 その荒 正人の著作に『評伝 夏目漱石』がある。

 「あとがき」のなかで荒さんは、

   夏目漱石は、私のもっとも愛する作家である。(中略)他にも好きな作家は二、三あるが、愛するという言葉は、夏目漱石にしか使うことができない。
 という。
 荒さんと漱石先生から離れて、自分のことを考えてみた。
 たくさんの作家にめぐりあった。その時期その時期に、ある特定の作家を愛してきたことはたしかだろう。もとより漱石先生は、もっとも尊敬する作家のひとり。しかし、「もっとも愛する作家」とまではいいきれない。

 これが、相手が異性の場合はおなじではなかった。
 はじめて眼にしたときから、自分の内面で、はじまりのことを幾度となく思い出し、また、その相手が去ってしまったあと、いつまでも思い出すような愛。あのまなざしに心をうばわれ、あのほほえみを見るためなら、どんなに時間がなくても、ただそのことだけで会いに行くような愛。
 たとえば、Aと会った・・。そして、Bと・・。さらには、Cと・・。数えあげてゆけば、F、Gあたりまではつづくだろう。愛するという言葉は、それぞれの時期に、それぞれの相手にしか使うことができなかったのに。

 さて、私には「漱石は私のもっとも愛する作家である」といういいかたのできる作家がいたのか。
 たとえば、チョーサーを愛した。だが、ボッカチオもまた、私のもっとも愛する作家だった。劇作家としてのマキャヴエッリ、物語作家としてのマキャヴエッリもまた、私のもっとも愛したひとりだった。

 好きな作家をあげるとしたら、とても、二、三にとどまらない。

 荒 正人を尊敬しているが、こういう根本的なところでは荒さんの影響をまったく受けなかったような気がする。

 嫌いな作家はいない。嫌いなヤツのものは読まない。したがって、私の内面には存在しないわけである。
 むろん、私が心から憎んでいる作家はいる。
 ここに書く必要はない。