菊地 寛が、あるエッセイで、
中車は、最も歌舞伎役者らしい歌舞伎役者だった。歌舞伎劇の持つ長所も、欠点も兼ね備えた人だった。中車の芸は、年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさにまで達した。
と書いていた。
残念なことに、私は中車を見ていない。
ただ、菊地 寛にかぎらず、谷崎、芥川などの世代には、歌舞伎役者のなかに、何か特別なものを見ていたような気がする。
江戸時代、それも末期の、ねっとりしたもの、時代の爛熟がもたらした頽廃や、激動する息吹の翳り、暗鬱なもの。具体的に、どうこうというのはむずかしいが、たとえば、谷崎が、沢村 源之助に見たもの。
年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさ。いまなら、又五郎のような役者がそうだろうと思う。
もう一つ。
「ねっとりしたもの」と「洗いさらした結城木綿」。
こういうことばで批評的に理解しあえた時代。私にはそれがうらやましい。