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プラサ・デ・トーレス(闘牛場)の前に長い行列ができていた。ダフ屋が何人も眼についた。そのひとりが、私のところに寄ってきた。私は手をふった。
 「ノ・ハブラ・エスパニョル」(スペイン語、話せない)

 ついさっき、外にいた8歳ぐらいの少年が、私におずおずと笑いかけたとき、どうせ買うならこの子からティケットを買ってやろうと思った。
 色のあさぐろい、すばしっこい感じの子どもだった。おそらく、ヒターノの血がまじっているだろう。
 少年はまさか私が自分のティケットを買ってくれるとは思わなかったらしい。
 値段を訊くと、さっきの男の半額以下だった。
 ダフ屋が法外な値でティケットを売っているのに、どうしてそんなに安く売るのだろうか。
 その疑問から、この少年がどうしてこのティケットを入手したのだろうと思った。ひょっとすると、すれ違いざま誰かのポケットから、すばやく紙入れをせしめたのか。
 その紙入れのなかに、ティケットが1枚、挟み込んであったのかも知れない。

 私はオンブレの席についた。反対側は、太陽の照りつける席で、観衆の大半は男たちばかり。その男たちがうごめいている。あちこちに強烈な原色の衣裳を着飾った女たちの姿が見えた。注意して見ると、オンブレの席にいる女たちのなかにも、黒いレースに純白のショールをまとい、スペインの民族衣装に丈の高いかぶりものをつけた美女が、二、三人、それぞれ離れた席についている。それぞれご贔屓の闘牛士を応援しているのか。恋人なのか。
 しばらく眺めているうちに、それぞれがおめあての闘牛士を張りあっている恋仇らしいことがわかってきた。観客たちもそれを知っているようだった。
 管楽器の音楽が流れて、場内がざわめき、劇場の開幕前のような、うきうきするような明るい緊張感がひろがってくる。

 遠く、山並みが見えた。日本の山とちがった荒々しい岩肌、しかも上の部分がナイフで削ぎ落としたように平らな山々。植物はない。麓のあたりから、コバルト・グリーンに近い色彩の樹林がひろがっている。

 ラッパが高らかに吹きならされて、ゲートから美々しい服を身につけた闘牛士たちが入場する。
 場内の大歓声が雪崩落ちる。若い闘牛士が、手をあげて声援にこたえる。

 私は、この席を選ぶことのできた幸運に感謝したい気もちで、いっぱしのアフィシオナードのように拍手していた。観衆がどよめく。
 日に灼けた、剽悍な表情の若い闘牛士の姿に、あの少年のはにかんだような笑い顔が重なってきた。